主張と礼儀
私たちが旅館に泊まった時の想定。
仲居さんが襖を開けて部屋に入って来る時に、正座をして襖を開けます。
これは「営業行為」だけではありません。
人としての基本的な「振る舞い方」が根本にあります。
開ける前に、「失礼いたします」と声をかけているので、
立ったままでも襖は開けられます。
手で無く、足でも開けられるでしょう。
開ける閉めるが、問題ではありません。
開けた時に、中に居る人を見下ろす事になるから座るのです。
人を見下ろしてはいけない。
当たり前の気配りです。
今は平気で見下ろす方も見上げる方も、その事が分からない人が多過ぎて情けない限りです。
私は、弟子が稽古費を古い汚れた紙幣で出したら、注意します。
礼儀とは何かを教えます。
実に単純明快、簡単に教えます。
金の価値に変わりは無い、のではありません。
教えてもらう事に対するお礼を形にするのです。
クシャクシャの紙幣を出す事は、「あんたの教え方はたいした事ないから、これでいい」と言ってるのと同じだと言ってやります。
すると、必ず、「いいえそんな事は思っていません」と返事します。
そうでしょうね、貴方はそういう気持ちでないでしょうが、私はそう思う人間なのです。
それでも、そう思ってる相手にクシャクシャの紙幣を出しますか。と言えば、
全員が、「いいえ。はい分かりました。来月からはピン札を用意します」と答えます。
たとえ納得しなくても、岩﨑玄龍はそういう奴だから、しょうがないと、次回からはピン札を出します。
これでいいのです。
だんだんに分かって来ます。
つまり、相手が嫌がる事、不快に思う事はやめましょう。
相手がどう思うか。相手の心を思うこと。
相手の気持ちを慮(おもんぱか)る事
これが、気配りなのです。
思いやりの心であり、礼儀という事です。
千円札、一万円札が汚れていようが新しかろうが、同じ価値しかないと言う人は、
そんな事をウダウダ言ってるから、古典芸能はウザイ。
めんどくさくて、やる人も少なくなるし、第一、芸の中身を磨くことが大事なのに、回りの些細な事ばかり言うのは本末転倒で何の意味もない。何が大事かという本質が形骸化した世界だ、と言うでしょう。
したり顔で、アメリカナイズされた考え方が文明人であるかのような言い方をする人が増えています。
この様な人たちは、給食費を払ってるんだから、うちの子に「いただきます」を言わせるなと、学校へ文句を言いに行く人たちです。
稽古費は払ってるんだから、お礼をいう必要はない。
無料で教えてくれたなら、当然お礼は言いますよ、という理屈です。
「いただきます」も「ありがとうございます」も根本にあるのは、食べる事ができる自分、環境、境遇への感謝でもあります。学ぶ事が出来る感謝です。
無人島ではないのです。人は一人で生きて行くことは出来ません。多くの人たちに支えられて生きています。
自分自身を支えてくれる天(健康であることも含めたすべての環境)への感謝を形にしているのです。
私たちは、自己主張も大事ですが、同じように相手も大事だと教えられています。
相手の立場、相手がどう思うかを考慮する。
相手を思えば優しくなれます。思いやりとは優しい心の事です。
ここで突然ですが、子供の時に聞いた、お釈迦様の教えを思い出しました。
「地獄の世界」と「菩薩の世界」の話でした。
地獄の世界にも菩薩の世界にも、大きなお鍋があって、中には美味しい料理がいっぱい入ってました。
でも、地獄の人たちは、痩せていて、皆、空腹でイライラ殺気立っていました。
菩薩界にいる人たちは、ふくよかで皆ニコニコしています。
大きなお鍋まで届くには、長い長い箸を使わなければなりません。
地獄にいる人たちは、その長い箸で料理を摘まんでも、今度は、箸が長すぎて自分の口へ入れる事が出来ません。
地獄界の人たちは、空腹なので先を争って、箸をぶつけ合って、料理を奪いあいますが、誰も食べられません。奪い合い怒鳴り合うばかりです。
菩薩界にいる人たちは、その長い箸で料理を摘まむと、お向かいに居る人に「どうぞ」と口に入れてあげます。
そうすると今度は、その人が「どうもありがとう、では今度は私が」と言って、長い箸で美味しい料理をこちらの口に入れてくれます。「それでは今度は私が」「いやいやもう満腹です」皆、ニコニコしています。めでたしめでたし。
子供心にも、お釈迦さんて上手い喩えを言うなぁと、感心した記憶があります。
私はこのブログに、個人的な趣味嗜好は書かないように気を付けていたのですが、ちょっと筆が滑ります。
私は、裏千家茶道を10年以上習っています。
長くやってるので、許状もいくつか持ってるし、自分のサークルの茶会も毎年やってます。
座忘斎お家元と、立礼の席ですが末席に座らせて頂いた事もあります。
つづき薄茶や炭手前を、ぎくしゃくしながらもやれるようになりつつあります。
お茶の世界は、気配り合戦です。
亭主も半東も正客もおじきゃくもおつめも、全てが様式美化された気配りのなかで徹底した所作をします。
無言が包む小さな茶室で、お釜の煮える音だけが聞こえてきて、不思議な贅沢な気分になったりします。
お湯の煮える音はご馳走と言われますが、よく分かります。
お茶会に呼ばれた時には、タクシーを利用する時がありますが、タクシーの場合、家の玄関先まで乗り付けては行けない、と習いたての時に注意されました。
近くまで行かずに、降りて、歩きなさいと言われました。
習いたてのペーペーが偉そうな振る舞いはダメ、と理解しましたが、ベテランの先生方でも玄関よりずっと手前で下車しているので、さすがにたいした世界だと感心しました。
何から何まで、気配りの競争世界で、何でそこまでと思う事が沢山ありますが、後になって、なるほどと納得します。
そしてそれが、意外な事ですが、とても合理的な事があとになって理解できます。
美意識と合理性が「おもてなし」に凝縮されています。
茶道は、礼儀が美しい心を作り、美しい心が礼儀を作ることを教えてくれます。
人と人との繋がり、人間関係はどうあるべきかという事を、孔子は「仁」や「侠」で教えてますが、韓国は儒教国家です。
しかし、地べたに反り返ってあたりかまわず泣きわめく人たちや、韓国の国会議員たちの掴み合い、乱闘シーンの映像を見ると、この国の儒教はどうなってるのかと不思議に思います。
韓国は地方同士が仲が悪くて対立も激しく、直ぐに自己主張と罵り合いのキムチパワーですが、孔子様も吃驚してる事でしょう。
ロンドンオリンピック8月10日のサッカー3位決定戦に、残念ながら日本は韓国に負けてしまいました。
勝ち誇ったように「独島は我らの領土」のプレートを掲げる朴鍾佑選手です。
しかしこの時、日本のサポーターたちは自分たちの椅子の廻りのゴミ拾いをして黙々と清掃していました。
たぶん、韓国選手がグランド上でボードを掲げていた事など知らなかったでしょう。
負けても冷静に自分たちの席の廻りを清掃をして帰る。Jリーグのスタジアムではどこでも当たり前の光景ですが、外国人は皆、びっくりしていたようです。
彼ら外国人は、負ければイスを壊したり、モノを投げたりする光景しか知らないからです。
これが日本人です。
私は、この「当たり前の光景」を誇りに思います。
仲居さんが襖を開けて部屋に入って来る時に、正座をして襖を開けます。
これは「営業行為」だけではありません。
人としての基本的な「振る舞い方」が根本にあります。
開ける前に、「失礼いたします」と声をかけているので、
立ったままでも襖は開けられます。
手で無く、足でも開けられるでしょう。
開ける閉めるが、問題ではありません。
開けた時に、中に居る人を見下ろす事になるから座るのです。
人を見下ろしてはいけない。
当たり前の気配りです。
今は平気で見下ろす方も見上げる方も、その事が分からない人が多過ぎて情けない限りです。
私は、弟子が稽古費を古い汚れた紙幣で出したら、注意します。
礼儀とは何かを教えます。
実に単純明快、簡単に教えます。
金の価値に変わりは無い、のではありません。
教えてもらう事に対するお礼を形にするのです。
クシャクシャの紙幣を出す事は、「あんたの教え方はたいした事ないから、これでいい」と言ってるのと同じだと言ってやります。
すると、必ず、「いいえそんな事は思っていません」と返事します。
そうでしょうね、貴方はそういう気持ちでないでしょうが、私はそう思う人間なのです。
それでも、そう思ってる相手にクシャクシャの紙幣を出しますか。と言えば、
全員が、「いいえ。はい分かりました。来月からはピン札を用意します」と答えます。
たとえ納得しなくても、岩﨑玄龍はそういう奴だから、しょうがないと、次回からはピン札を出します。
これでいいのです。
だんだんに分かって来ます。
つまり、相手が嫌がる事、不快に思う事はやめましょう。
相手がどう思うか。相手の心を思うこと。
相手の気持ちを慮(おもんぱか)る事
これが、気配りなのです。
思いやりの心であり、礼儀という事です。
千円札、一万円札が汚れていようが新しかろうが、同じ価値しかないと言う人は、
そんな事をウダウダ言ってるから、古典芸能はウザイ。
めんどくさくて、やる人も少なくなるし、第一、芸の中身を磨くことが大事なのに、回りの些細な事ばかり言うのは本末転倒で何の意味もない。何が大事かという本質が形骸化した世界だ、と言うでしょう。
したり顔で、アメリカナイズされた考え方が文明人であるかのような言い方をする人が増えています。
この様な人たちは、給食費を払ってるんだから、うちの子に「いただきます」を言わせるなと、学校へ文句を言いに行く人たちです。
稽古費は払ってるんだから、お礼をいう必要はない。
無料で教えてくれたなら、当然お礼は言いますよ、という理屈です。
「いただきます」も「ありがとうございます」も根本にあるのは、食べる事ができる自分、環境、境遇への感謝でもあります。学ぶ事が出来る感謝です。
無人島ではないのです。人は一人で生きて行くことは出来ません。多くの人たちに支えられて生きています。
自分自身を支えてくれる天(健康であることも含めたすべての環境)への感謝を形にしているのです。
私たちは、自己主張も大事ですが、同じように相手も大事だと教えられています。
相手の立場、相手がどう思うかを考慮する。
相手を思えば優しくなれます。思いやりとは優しい心の事です。
ここで突然ですが、子供の時に聞いた、お釈迦様の教えを思い出しました。
「地獄の世界」と「菩薩の世界」の話でした。
地獄の世界にも菩薩の世界にも、大きなお鍋があって、中には美味しい料理がいっぱい入ってました。
でも、地獄の人たちは、痩せていて、皆、空腹でイライラ殺気立っていました。
菩薩界にいる人たちは、ふくよかで皆ニコニコしています。
大きなお鍋まで届くには、長い長い箸を使わなければなりません。
地獄にいる人たちは、その長い箸で料理を摘まんでも、今度は、箸が長すぎて自分の口へ入れる事が出来ません。
地獄界の人たちは、空腹なので先を争って、箸をぶつけ合って、料理を奪いあいますが、誰も食べられません。奪い合い怒鳴り合うばかりです。
菩薩界にいる人たちは、その長い箸で料理を摘まむと、お向かいに居る人に「どうぞ」と口に入れてあげます。
そうすると今度は、その人が「どうもありがとう、では今度は私が」と言って、長い箸で美味しい料理をこちらの口に入れてくれます。「それでは今度は私が」「いやいやもう満腹です」皆、ニコニコしています。めでたしめでたし。
子供心にも、お釈迦さんて上手い喩えを言うなぁと、感心した記憶があります。
私はこのブログに、個人的な趣味嗜好は書かないように気を付けていたのですが、ちょっと筆が滑ります。
私は、裏千家茶道を10年以上習っています。
長くやってるので、許状もいくつか持ってるし、自分のサークルの茶会も毎年やってます。
座忘斎お家元と、立礼の席ですが末席に座らせて頂いた事もあります。
つづき薄茶や炭手前を、ぎくしゃくしながらもやれるようになりつつあります。
お茶の世界は、気配り合戦です。
亭主も半東も正客もおじきゃくもおつめも、全てが様式美化された気配りのなかで徹底した所作をします。
無言が包む小さな茶室で、お釜の煮える音だけが聞こえてきて、不思議な贅沢な気分になったりします。
お湯の煮える音はご馳走と言われますが、よく分かります。
お茶会に呼ばれた時には、タクシーを利用する時がありますが、タクシーの場合、家の玄関先まで乗り付けては行けない、と習いたての時に注意されました。
近くまで行かずに、降りて、歩きなさいと言われました。
習いたてのペーペーが偉そうな振る舞いはダメ、と理解しましたが、ベテランの先生方でも玄関よりずっと手前で下車しているので、さすがにたいした世界だと感心しました。
何から何まで、気配りの競争世界で、何でそこまでと思う事が沢山ありますが、後になって、なるほどと納得します。
そしてそれが、意外な事ですが、とても合理的な事があとになって理解できます。
美意識と合理性が「おもてなし」に凝縮されています。
茶道は、礼儀が美しい心を作り、美しい心が礼儀を作ることを教えてくれます。
人と人との繋がり、人間関係はどうあるべきかという事を、孔子は「仁」や「侠」で教えてますが、韓国は儒教国家です。
しかし、地べたに反り返ってあたりかまわず泣きわめく人たちや、韓国の国会議員たちの掴み合い、乱闘シーンの映像を見ると、この国の儒教はどうなってるのかと不思議に思います。
韓国は地方同士が仲が悪くて対立も激しく、直ぐに自己主張と罵り合いのキムチパワーですが、孔子様も吃驚してる事でしょう。
ロンドンオリンピック8月10日のサッカー3位決定戦に、残念ながら日本は韓国に負けてしまいました。
勝ち誇ったように「独島は我らの領土」のプレートを掲げる朴鍾佑選手です。
しかしこの時、日本のサポーターたちは自分たちの椅子の廻りのゴミ拾いをして黙々と清掃していました。
たぶん、韓国選手がグランド上でボードを掲げていた事など知らなかったでしょう。
負けても冷静に自分たちの席の廻りを清掃をして帰る。Jリーグのスタジアムではどこでも当たり前の光景ですが、外国人は皆、びっくりしていたようです。
彼ら外国人は、負ければイスを壊したり、モノを投げたりする光景しか知らないからです。
これが日本人です。
私は、この「当たり前の光景」を誇りに思います。


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