我が大和民族の創作意欲を見よ

日本は漢字や呉服など、多くの文化を取り入れて来ました。
日本文化の根幹をなすものほとんど全部といってもいい程です。
逆に、日本から世界に発信したオリジナル文化は扇子(扇)などが有りますが、ほんの僅かです。

最近では、日本から発信して世界制覇を成し遂げた日本オリジナル文化は、「カラオケ」と「トイレットペーパーの三角折り」が有ります。

「三角折り」を考案した人は、銀座の「クラブ順子」のママ、田村順子さん。
1966年に銀座にお店を開いた52年前から、三角折りをしていたそうです。

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田村順子さんは、日活スターの和田浩治さんと結婚されて、当時話題になりましたが、男たちを手玉に取る夜の世界のやり手ママという雰囲気では無く、笑顔の可愛いお嬢さんという感じで、編み物などの手芸が趣味との事でした。
その趣味の一環として、三角折りをしていたそうです。
「クラブ順子」のトイレでこれを見たビジネスホテル「ホテル法華」の社長が、1968年にホテル全室にユニットバスを導入した時に、テイクアウト後の客室清掃完了の合図としてこの三角折りを採用しました。これが全国に広まるキッカケになりました。

国内のホテルに留まらず、またたく間に世界中に拡散して行きましたが、広まると同時に、ルーツ探し、最初に始めたのは何処の誰か、捜しが始まりました。
ネット上では、アメリカの消防署が始まりだ。災害時に迅速に対応を求められる職業のため、すぐに使用出来るように工夫された。三角折りと言われる畳み方は「ファイアーホールド」と呼ばれているなどと、もっともらしい流言が広まっていきました。
 
この事は、2015年2月1日にテレビ番組「爆笑問題の、それっていつから?」で取り上げられて、検証されました。
米国消防局に問い合わせた所、そのような事実はない、ファイアーホールドなる言葉も存在せず、更にトイレットペーパーを日本とは逆向きにセットするため、そもそも三角に折りにくいとの事で、米国説は否定されました。

やはり田村順子ママのオリジナルである事が証明されました。

定着するにしたがって、今度は「三角折りは不衛生である。清掃時の汚れた手で畳む作業は、使用する人にとっては感染リスクがある、「三角折りは止めよう」キャンペーンが起こり、病院などのトイレには、使用する人に、折らないように注意書きが貼ってある所があるそうです。

これももっともらしい話ですが、専門の感染症医は「結論から言えば、三角折りをしないからと云って、感染のリスクが下がる事ではない。そもそも感染の侵入経路はそんなに単純ではない」 (品川のぞみクリニック 筋野惠介医師)

要は、よく手を洗えばいいだけの事です。
世界中のホテルのトイレの三角折りを撮った写真集まで出版されているとの事で驚くばかりです。


今では様々な折り方が考案されています。
さすが、オリガミの国、オリガミマエストロの出現です。




それでは、我が日本の巨匠たちの芸術の数々をご覧ください。

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ウーン 凄いですね。
大和民族、オリガミの国。

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作り方もあります。

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これは気合全力で作ったようです。凄いです。
後ろに葉っぱまであります。

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さりげなくて、意外に見過ごしてしまいがちですが、発想が見事です。

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これも見過ごしてはいけない力作ですね。

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もうね、日本人の発想力の凄まじさには、世界中が発狂しそうです。



その頂点に立つ、偉大な芸術をご覧ください。

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人類は、ついにここまで到達しました。
ピカソも泣いてひれ伏すでしょう。






何言ってるのよ。
人間だけじゃないわよ
私たちにだって出来るわよ

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俺だって作れるぞ

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どうだ。これが芸術だ。

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それから、カラオケが日本で生まれて世界中に広まったおかげで、俺たちも楽しませてもらっているぜ。

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それにしても何だい、このブログ。
しばらく更新してないと思ってたら、何という中身の無い内容だ。
人間世界は、お気楽でいいな。





9・11 余話

今年1月20日(金)に、190センチの長身ドナルド・トランプ氏が70歳という歴代最高齢で米国第45代大統領に就任してから、4月29日(土)で、100日目になりました。
100日間は、いわゆる「ハネムーン期間」という事で、マスコミは厳しい追及をしないのが慣例だそうですが、トランプ大統領は例外らしく、連日CNNを初め、各報道機関が、ヒステリックなまでに対決報道を繰り広げていますが、

トランプ大統領も負けていません。



この映像を作った人は天才ですね。


さて、トランプ大統領は就任直後に、TPP廃棄や医療保険改革の撤廃など、矢継ぎ早やに大統領令を発令しています。
私が注目するのは、これから発令する大統領令項目の中に、「ニューヨーク、貿易センタービル爆破」捜査の見直しがある事です。

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20001年の9月11日。あれから16年も経つのですね。
事件発生の当初から、多くの疑惑が取沙汰されて来ております。
グーグル検索すると、数多くの記事が出て来ますので、興味のある方は検索してみて下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AA%AC

http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/info/911_jet_is_CG.htm

http://hollywoodsnap.com/9-11-html/

まだまだ、いくらでも出て来ます。
「9・11 疑惑」で検索すれば、数多くの記事が出て来ます。

9・11事件発生後には、米国政府による、戒厳令とも呼べる特別な規制が発令されました。
たとえば、アメリカ本土の上空を飛んでいるあらゆる飛行機に対して、直ちに着陸する命令を出しました。
また海外からアメリカに向かって飛んでいた飛行機は、近くの空港に着陸するよう指令しました。





この手記は、当日のデルタ航空搭乗員ナジム氏の記録です。

私たちはフランクフルトを出発してから五時間後、北大西洋上空を飛行していました。
私は搭乗員用の休憩スペースで予定通り休憩を取っていました。すると突然カーテンが開けられて、直ぐにコクピットの機長の所に行くよう言われました。
駆けつけると、集まっていた搭乗員全員が緊張した表情をしていました。機長が私に印刷されたメッセージを手渡しました。メッセージには「アメリカ本土すべての航空路は閉鎖。最寄りの空港に出来るだけ早く着陸する事を勧告する」と書かれていました。
運行管理者が空港を指定せずに、直ぐざま着陸せよと指示する事は、運航の管理をやめて機長に一任するという事で、かなり深刻な事態が発生している状況です。
とにかく直ぐに着陸できる場所を探さねばなりませんでした。現在地点に最も近い空港は、約64キロ離れたカナダ、ニューファンドランド島のガンダー国際空港です。
カナダ管制塔にリクエストを送るとすぐに承認されたので右旋回してガンダ―に向かいました。
カナダの管制塔がなぜ何の質問もせずにすぐに着陸承認をしたのかは、後で知る事になります。
着陸が決まると、直ちに私たち搭乗員は緊急着陸のための用意をしました。

私たちは機内アテンダントに、ガンダー空港に向かう事、着陸のためにすべてのサービスは一旦停止する事を告げました。
数分後にコクピットに戻ると、アトランタから届いた新たなメッセージで、ニューヨーク付近でテロ事件が起こり、数機の航空機がハイジャックされて、アメリカ全土の建物に突っ込む可能性があるという情報を得ました。
しかし事の重大さゆえに、この事は、乗客には伝えずに嘘のアナウンスする事を決め、機内放送で、機材の不具合が生じたためにガンダー国際空港に着陸して調査するとアナウンスしました。怒り出す乗客もいましたが、それは避けられない状況でした。
約40分後、私たちはガンダーに着陸。そこにはすでに世界各国から20機以上の航空機が着陸していました。着陸路から防止帯に移動して止めると、機長が乗客に向けてアナウンスをしました。
「ご搭乗の皆様、周囲に停まっている航空機は皆、当機と同じ機材不具合でここに居るのかと不思議に思われるでしょう。しかし、私たちは別の理由で着陸しました。」
それから機長は今アメリカで起こっている事について説明をしました。乗客は息をのみ、何が起こったのか信じられないという驚きの表情をしている人がほとんどでした。この時、ガンダーの現地時間は午後12時半でした。(アメリカ東部の時刻は午前11時)

ガンダ―管制塔からは、機内に留まるよう指示が出ました。誰も機外へ出る事は出来ず、また地上にいる人も機体へ近づくことは許されませんでした。
時々、空港警察の車が機体のそばまで来て私たちを確認して次の飛行機の所に行きます。
私たちが着陸してから、約一時間のあいだに、北大西洋上空から、すべての飛行機がいなくなり、ガンダーだけでも世界各国から53機の飛行機が緊急着陸していました。そのうち27機はアメリカ国旗を付けていました。

その後、外国機を優先して一機ずつ乗客を降ろして行くと告げられました。
私たちは、アメリカの航空機の中では14番目で、午後6時ごろの降機の予定だと告げられました。
待機している間に情報が少しづつ入って来て、複数の航空機がニューヨークの世界貿易センタービルと、ワシントンDCの国防総省本庁舎に激突した事を知りました。
携帯電話を使おうとしても、カナダとは接続システムが異なるために繋がりません。繋がっても、アメリカへの通話は防止されているのか、あるいは非常に混みあっているのか、カナダのオペレータに繋がるだけでした。
夕方遅くに、世界貿易センタービルが完全崩壊したとの情報が伝わって来ました。
乗客はうろたえ、精神的にも疲れ切っていましたが、「皆さん、窓から他の飛行機を見て下さい。このような困難な状況にあるのは私たちだけではありません。頑張りましょう」と、私たちが呼び掛けてどうにか平静さを保っていました。
約束の午後6時に、ガンダー管制官から私たちの降機時刻は明日の午前11時になるとの連絡が入りました。
これを聞いて乗客全員はすっかり元気を失くし、がっかりして機内で夜を明かす準備を始めました。

ガンダ―は人口1万400人の町です。
赤十字の人達が空港に来て、着陸させられた全部の航空機の乗客1万500人を、順番に町に移送し始めました。
私たちの番になり、ようやくホテルに着いて休み、しばらくの間は指示が来るまで待機するように言われました。
ホテルのテレビをつけて、初めて母国での連続テロ事件の全容を知りました。事件発生からまる24時間が経過していました。

帰機への指示を待つあいだ、私たちは町に出てあちこち歩き回り、地元の方々の温かいもてなしを受けました。
私たちの事を「飛行機の人たち」と呼んで迎えてくれ、本当に優しくて親切でした。
2日後の9月14日午前7時の帰機指示を受けるまで、乗客たちはこの小さな町で、すっかり心休まる素晴らしい時間を過ごしました。
私たち乗務員は午前8時半までに空港に到着、航空機は午後12時半にアトランタに向けて離陸。そして午後4時半にアトランタに到着しました。(ガンダーはアメリカ東海岸時間よりも1時間半早いのです)

しかし、私がお伝えしたいのは違う事です。
乗客が話してくれた、ストーリーをお伝えしたいのです。

ガンダ―空港から半径75キロ以内にある地域のすべての高校、集会所、宿泊施設、その他の大きな集会施設のすべては閉鎖されて、「飛行機の人たち」のための待機施設に変えました。
私たちのために、住民は簡易ベッドやマット、寝袋、枕を用意しました。地元の高校生の全員が、私たちの世話をするボランティアをしました。
私たちの航空機の乗客218名は、空港から45キロほど離れた場所にあるレビスボートという町に移され、地元の高校に宿泊する事になりました。
乗客の希望で、ある女性が女性専用の施設を希望すれば直ぐに用意され、家族の人たちは、別々でなく一緒に居たいと希望すれば、その通りになり、高齢の乗客は例外なく個人宅へ迎え入れられました。
妊婦は24時間体制の緊急治療センターから道路を挟んだ向かい側の個人宅に迎えられました。
宿泊する高校には、待機期間中、当直の医師と男性女性の両方の看護士が配置されていました。
またすべての乗客がアメリカやヨーロッパへの電話やメールを毎日利用する事が出来ました。
この間、乗客には「遠足」に行く選択も与えられました。湖や港での船遊びに行った人、地元の美しい森に散策に出かけた人もいます。
地元のパン屋さんは、彼らのために遅くまで店を開けて新鮮なパンを焼き続けていました。出かけずに高校に残っている人たちには、住民が用意した食料が運ばれました。
その他の人たちには、気に入った食堂まで地元の人が送迎してくれて、そこで食事をしました。
荷物は全部、依然として飛行機の中にあったので、地元のコインランドリーで洗濯するための専用コインも与えられました。
「飛行機の人たち」にとって、必要なものは全て手配されていました。

そして時が来て、機内に戻る時には、乗客全員が時間通りに空港に送り届けられて、誰一人として遅れたり、不明になったりした人はいませんでした。
これは空港に待機していた赤十字の人たちが乗客の動向を把握していて、どのグループがいつ空港に着くべきかをしっかりと管理していたからです。信じられないほどの完璧さでした。

再び搭乗した乗客たちは、ちょっとしたクルーズの旅に行って来たかのような面持ちでした。その頃には誰も皆がお互いの名前を知っていて、滞在期間中にお互いいろいろ話し合ったりしながら、素晴らしい時間を共に過ごしました。
お互いが皆古い友人のようで、アトランタへ戻る機内はまるでパーティーのような雰囲気でした。

共にこの難局を乗り越えた乗客たちは、すっかり意気投合して名前で呼び合い、電話番号や住所、メールアドレスを交換していました。そして、さらに通常では考えられないような事が起こりました。
ビジネスクラスの乗客が私の所に来て、ほかの乗客に向けて機内アナウンスで話したい事があると言うのです。
通常だったら絶対にさせない事です。しかしこの時、私の中で彼の邪魔をしないで!と言う声が聞こえた気がしたのです。それで私は「いいですよ」と答えました。
その紳士はマイクを手に取ると乗客に向かって、この数日間に自分たちが何を経験したか、また全く見知らぬ人たちから受けた真心のこもった持てなしについて思い起こそうと語り始めました。
そしてレビスボートの素晴らしい人たちに対して何かお返しがしたいと言いました。デルタ15(私たちのフライトナンバー)と言う名前で、信託基金を設置して、レビスボートの高校生の大学進学を支援する奨学金をそこから出そうと言うのです。
彼は長旅を共にした乗客たちに、いくらでもいいと寄付を募りました。私たちの所に、寄付額、氏名、電話番号と住所が記載された紙が回ってくると、合計寄付額は何と、1万4千500ドル、約2万カナダドル(約145万円)にもなっていました。
この提案をした紳士はバージニア州の医学博士でした。彼はこの募金額と同額を出資し倍額にして、募金設立のための諸手続きをすると約束しました。

現在、デルタ15基金は設立されて運営されています。



アン・サリヴァン先生(2)

アン・サリヴァンが会いに行く子供は、見えない、聞こえない、話せない、3つの障碍を持つ子供であると、事前に聞かされていました。

両親に手を引かれて、アンの前に現れた子供は、自由奔放、いかにも勝ち気で我が儘な感じの娘です。
使用人のいる裕福な地主の家庭で、大らかに大事に育てられて来ました。
アンは微笑み、親しみを込め抱き寄せてハグしようとしましたが、少女は激しく振り払って拒絶しました。
当然です。

全く聞こえない、暗黒の世界に、いきなり母親ではない匂い、今までに知らない体形の違う人間が、自分を抱き寄せようとしたからです。

翌日、アンはヘレンへのお土産に、パーキンス盲学校で貰った大事な人形をあげました。
そして、ヘレンの手のひらに、指でなぞりました。
そしてまた、その人形をもう一度抱かせて、また手のひらに、なぞりました。
更に又、人形を改めて抱かせ、また手のひらに指でなぞりました。

少女は、誰だか分からない人が、自分の手のひらに指を動かしているのを注意深く感じます。
そしてその指の動きが、常に一定の動きである事を感じます。

その指の動きは、自分が抱いている小さなフワフワとしたものの事だと覚りました。
ヘレン・ケラーが最初に覚えた言葉は、人形 ( doll )
アン・サリヴァンは何度も何度も、何度も何度も、ヘレンの手のひらに「人形」と書き続けたのです。

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       8歳のヘレン・ケラーと22歳のアン・サリヴァン

今では、アンは優れた教師として認識されていますが、この時は、家政婦(ガバネス・governess)としての求人募集です。
教師の資格は無い、盲人学校卒業は高卒とはいえないため、親にしてみれば、教師というよりも、子供の世話係募集の感覚だったと思います。

しかしそれからのヘレンに対するアンの奇跡をもたらす教育振りは、多くの本、芝居、映画で有名ですね。

アンは、住み込みの家庭教師となり24時間ヘレンと過ごす事になりますが、たまに周囲と摩擦を起こし、ヘレンの両親や盲学校の先生たちは、アンを解雇しようとした時があり、アン自身も、やむなく戦地での看護婦に応募して、この地を離れようとした事がありましたが、しかしヘレンがアンを慕っていて、傍から絶対に離れませんでした。

アン・サリヴァンは過酷で悲惨な少女時代を生きて来たのです。
性格の優しい、「いい人」だけでは生きて来られません。
救貧院にうじゃうじゃいる子供たちの中にいて、馬鹿にされ、いじめや嫌がらせにあいながら必死に生きて来たのです。
時に頑固になり、偏執と思われても当然な事ですが、周囲の人たちは、彼女の育った環境など知らず、またアンも決して語らず、ヘレンに、アンの極貧の子供時代を初めて語ったのはアンが64歳、ヘレンが50歳になった時でした。


私は思います。
人間、最初から完璧な人間なんていません。性質は変わりませんが性格は作られます。
人格とは作られていくものだと思っています。
20歳では人間性も幼く、人との接し方も満足には出来ません。
アンは、ヘレンを教育する事によって、自分自身を救い、共に教養を積み、自分自身を形成して行ったのだと思います。

私は深く反省します。
相手の立場になって教え、相手の立場を理解する事によって自分が学べる。
教える事は教わる事だとも言います。
得てして、芸は盗むもの、という考え方があり、私もそのような稽古で育てられて来ました。
例えば、料理人は教えない、醤油小さじ1杯とか砂糖大さじ2杯とは言わない。教えない。
新入りは皿洗いをしながら、先輩の料理を横目で見て覚える。
客が食べ終わり、戻って来た皿に付いているタレを指ですくい舐めて、その味を覚える。
仕事は盗め。
職人の世界は、すべてこの方式が一般です。
一部の優秀な者を選抜し育てるやり方です。それはそれでいいのでしょう。

しかしアン・サリヴァンは違いました。
徹底して、相手が出来るまでやる。分かるまでやる。
例えば、ヘレンがビーズの糸通しをしていて、順番が分からなくなって悩んでいる時、
アンはヘレンの額に、指で、考える( think )と書きました。
ヘレンは、この状況が「考える」事だと、意味と言葉を理解しました。



聡明な二人が、大変な努力をして勉強を重ね、ヘレンは20歳の時に(1900年)ラドクリフ女子大学(現ハーバード大学)を優等卒業しますが、後年、2つの大学から学位博士号を授与されています。
1931年、米国フィラデルフィアのテンプル大学、人文学博士号授与
1932年、英国のグラスゴー大学、法学博士号授与

テンプル大学は、ヘレンだけではなく、アンにも博士号を授与しましたが、アンは頑なに拒み辞退して受けませんでした。しかし翌1932年にテンプル大学は、博士号を再度推薦して、周りからも説得され、ようやくアンは受諾しました。
テンプル大学にしてみれば当然の授与でしょう。
全科目を二人で出席し授業内容をアンが理解して、ヘレンに伝え、ヘレンの質問を教授に伝え、その答えを又ヘレンに解るように伝えていたのです。つまり2人して授業を受けていたのです。
しかし、博士号の授与を拒むのがアン・サリヴァンなのですね。

アンにとっては、自分はヘレンの目であり耳であり口であると思っています。
何よりもヘレンが唯一の自分の宝ものであり、ヘレンが優秀である事が自分の喜びであり誇りであり、磨き、愛し続ける事以外には何の望みも持たなかったからです。


ヘレンは23歳の時に初めての著作「私の生涯」を出版し、その後いくつもの著書がありますが、ある時、「先生の事を書いた本を出したい」とアンに言いますが、「そんなの絶対にダメよ」と言われてしまいます。
その後何度も何度も食い下がりますが、返事は常に「絶対にダメよ」でした。

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ヘレン・ケラー著書「先生」(Teacher)が出版されたのは、アン・サリヴァンが1936年に亡くなった後の、ずっと後の1955年の事です。
19年も経ってから書いたのは、ヘレンがきっと、「ねえ先生、もう書いてもいいでしょう。ね、お願い。絶対、先生の事を書きたいの!」と言ってるように思います。

そしてこの後、ヘレンはペンを持つ事はありませんでした。
これがヘレン・ケラー、最後の著書です。






アン・サリヴァン先生 (1)

私は琵琶の歌や弾き方を教える事を仕事にしていますが、いつも教え方に悩んでいます。
どうして上手くならないのか、どうすれば私以上の演奏をさせるように出来るのか。
わずかな弟子しかおりませんが、皆、熱心に稽古をしています。
上手くならないのは、ぜんぶ私の責任だと思っています。
必ず上手くさせる方法は、絶対にあると思っています。
教え方の悩みは、深くて重い…


アン・サリヴァン先生は、あまりにも有名ですが、私には無縁でした。

彼女は1866年、明治維新の2年前にマサチューセッツ州の貧農の娘として生まれますが、3歳の時に眼病トラコーマに罹り、視力が低下します。
彼女が9歳の時に母親のアリスが亡くなり、10歳の時にはアル中の父親トーマスが育児放棄をしてしまいます。
チュークスバリー救貧院に、弟ジミーと収容されますが、福祉施設とは名ばかりで、そこに居るのは貧困者、孤児、娼婦、性病者、身体障害者、精神障碍者などの、社会から隔離された牢獄のような施設です。
不衛生で劣悪な環境のため、まもなく弟ジミーは結核で亡くなってしまいます。
天涯孤独の身となったアン自身も、目が悪化していき、遂に盲目となります。

目の前が真っ暗、とは言いますが、本当に暗黒の世界にポツンと、たった一人で幼い少女がいるのです。
どうして生きる希望など持てるでしょうか。
彼女は重い鬱になり、心を閉ざし、食事を拒否し、全てに反応を示さなくなったため、地下の独房へ移されます。

人生とは不思議なものですね。
たいがいならば、これで終わりです。不幸な可哀想な娘がいた、で終わりです。

反応を示さないために、施設の職員の皆が、彼女への補助指導を諦めた時に、たった一人だけ、アンと接し続けた看護婦がいました。(調べましたが名前はまだ分かりません)
看護婦はクリスチャンでした。
昼休みにおやつを持って地下へ降り、熱心に聖書の話をしました。
反応が無いまま、何日も、何週間も、何か月も続けていた、ある日
いつものように地下へ降りて行くと、前日に置いて行ったおやつが食べられていました。

それを見た看護婦は、狂喜して施設長の所へ飛んで行きました。


冷静に考えて、私なら、アン・サリヴァンを元気づけられるだろうか。
身寄りのない盲目の少女。母を亡くし、父に捨てられ、たった一人の弟さえも失った幼い盲目の少女に
向かい合って、どう言えばいいのだろうか。

私は、特定の宗教は持たない。
よって、神や仏を語る事は出来ないが、しかし、

この看護婦がアン・サリヴァンを生き返らせたのは、生きる希望を与えたのは、明日への力を持たせたのは、
まぎれもない神への篤い信仰心です。
神の言葉がアンの心を動かしました。
素直に私は宗教の持つ力を認めます。宗教の役割を支持します。
私には出来ない無力さ、人を勇気づける力の無さを痛感するばかりです。


さて、アンは、自分が愛されたように、自分も施設の人たちを愛して生きる事を決意し、学校へ行きたいとの希望を持ち、告げます。
念願が叶い、1880年、14歳の時にパーキンス盲学校に入学。
手術を数回受ける事が出来て、弱視ながらも視力を回復しますが、光に弱く、日常はサングラスを使用したとの事です。
1886年(明治19年)20歳、首席で卒業します。
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そして翌1887年3月3日
盲学校から家庭教師の職を紹介されて、アラバマ州タスカンビアの地にやって来ました。

21歳のアン・サリヴァン。7歳のヘレン・ケラーの出会いです。






歴史の悲しみは常に色褪せていく

江戸時代は、各地でたびたび百姓の一揆が起こった。
生きていくギリギリの暮らし、その生活の限界を越えた重税、年貢の取り立てに耐えられず、百姓たちは代官所役人に窮状を訴える一揆を起こした歴史があります。起こさざるを得ませんでした。

おもに天候不順による不作、飢饉が原因ですが、各地で起こった一揆は、ことごとく制圧され、藩の体制を揺るがす事は無かった。
たいがいは半日、多くても一日で鎮圧され、その後徹底した、厳しい断罪処刑が行われました。

琵琶歌は、これらの歴史を歌わない。
いつもお殿様、お姫様、貴族の喜怒哀楽だけを歌っている。不愉快でならない。


渡し守甚兵衛の話は、「佐倉義民伝」に詳しい。
承応年間、下総の国、佐倉藩の苛酷な年貢(重税)に苦しむ農民たちの惨状に、名主の佐倉惣五郎は幕府に直訴を決意する。
直訴は大罪であり、禁を犯せば一族の死罪は免れない。惣五郎は妻子に罪が及ばぬようにと離縁状を持って自宅へ戻り、訣別しての戻り道、待ち構えていた追捕に追われる。
絶体絶命の時、船頭の甚兵衛の助けによって舟で印旛沼を渡り、対岸の吉高へと逃がれる。
大義のためとは言え、手助けした甚兵衛も大罪を犯したことになる。彼はみずから印旛沼へと身を投じます。
惣五郎は間もなく捕らえられて夫婦ともに磔、4人の息子は死罪になりました。

どんな正義でも、大きな体制の前では打ち砕かれる時代です。


大塩平八郎は、大坂町奉行与力を勤める役人であり、儒学者です。
体制側の役人である平八郎が、役所の不義怠勤に見るに見かねて、乱を起こしました。

天保の大飢饉と言われた天災により、米の収穫が全く出来ず百姓の暮らしは困窮し、重税に喘ぎます。
コメ不足で、コメの値段は急騰し更に暮らしは厳しくなっていきます。
平八郎は、民衆の困窮を町奉行に訴えて、救援要請をしますが拒絶却下されます。

なんと、平八郎は自分が所蔵する5万冊すべてを売却(約600万両)して、支援資金を捻出して町民の救済に当てます。
この行為に対して、奉行所は「勝手な振る舞い」「売名行為」と咎めて、平八郎を警戒します。


如何なる訴えも退けられて、遂にやむなく、大塩平八郎は門弟らと共に蜂起しますが、半日で制圧されました。
追手から逃れた平八郎は、その後40日間に渡って逃げる事になります。


追捕の指揮をとるのは鷹見泉石。(古河藩家老)
古河藩主、土井利位(としつら)が大坂城代として赴任していたため、職務補佐役として付随して来て、大塩平八郎の鎮圧に務めました。


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      (国宝)鷹見泉石像    画・渡辺崋山


鷹見泉石と大塩平八郎は、同じ学者仲間として親しい付き合いをしていました。
平八郎は潜伏先を包囲されて、自決して44歳の生涯を閉じます。
捕縛に向かう泉石の心中はどうだったのでしょうか。

12歳から60年間に渡り、詳細に書き留めていた泉石の日記は客観に徹した記述のために、この日の日記からは彼の心情は窺い知ることが出来ません。
(泉石はコレクターとしても優れ、この日記も含めて海外の地理、天文などの文物、絵画、器物などの収集品3153点が国の重要文化財に指定されています)
  鷹見泉石記念館 http://www.kogakanko.jp/top.php?ID=13



泉石の仕えた古河藩主、土井利位も雪の研究家として有名です。
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江戸時代に、お殿様が顕微鏡で雪の結晶を調べていた事に驚きますが、86種もの結晶を記録した「雪華図説」や「鷹見泉石像」を見るたびに、私は別の思いに駆られます。


庶民とかけ離れた豊かな暮らしの中で、収集した貴重な文物も、顕微鏡で覗いた研究も、今では国の貴重な財産であり、大切な記録です。

同時に、その同じ時代の中で消えて行った無念の人々の思い、打ち砕かれた希望や理想を思わずにいられませんが、しかし、

歴史は常に多くの悲しみを埋もれさせ、忘れられて色褪せて行きます。




「驚いた写真」と言われた事に驚いた

私たちが、この写真を見ても衝撃を受ける人はいないでしょう。
ほとんどの人の感想は、ご高齢で激務をされておられる天皇陛下のご健康を気遣い、ご健勝を安ずるばかりです。
私たち国民は、御退位の気持ちを申されたお心を深く受け止めなければならないと思っております。


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天皇陛下は、9月1日御所にて、サウジアラビアのムハンマド副皇太子殿下と会見をされましたが、
この会見の様子と写真は、アラブ諸国にも報道されました。



この写真を見た、多くのアラブ諸国の人たちから、続々とネットに感想が寄せられて来ています。


▪ この一枚の写真が示唆することは数え切れないほど多い! ヨルダン(賛同、+46人)
▪ 日本星と俺たちとの違いはあまりにも大きいな! エジプト(+2)
▪ ワーオ、この写真はしかし……驚異的だね。 レバノン(+2)
 ・ すごいよね?!!
   あの空間を目にして、王子は何を思ったんだろう。 イエメン
 ・  カーペットですらシンプルだ!!
   おもてなしや親密さの表し方が真逆なんだね。
   正直俺は、一本取られたって気分になった。 国籍不明(+1)
 ・ 俺も圧倒されたよ。
   ミニマリズムが核となってるんだろう。 レバノン
▪ この写真がたまらなく好きな自分がいる…… ヨルダン(+7)
▪ 天皇と王子が会見をした。
 あの空間には、その事実だけが存在する。 国籍不明(+3)
▪ ただただひたすら美しい。 サウジアラビア(+31)
▪ 余計な装飾はしない。
 偉大な日本の人々のシンプルさの象徴だね。 ロシア在住(+1)
▪ 日本的な、あまりにも日本的な空間だ。 国籍不明(+12)
▪ この一枚の写真は、芸術だよ。 カタール(+11)
▪ 1000の言葉が込められた一枚ですな。 エジプト(+29)
▪ これぞ日本のインテリアの美学よ。 国籍不明(+20)
▪ こういった一切の無駄を省いた部屋は目にも心地いい。
 イスラム諸国の首脳陣も見習ってほしいものだ。 パキスタン(+3)
▪ シンプルさを追求すると、エレガンスになるんだね。 国籍不明
▪ 天皇の地位にあるお方の部屋がこれだもん。
 もう尊敬するしかないw エジプト(+14)
▪ いや~、ショッキングな写真だ。
 あの慎み深さからは、美しさすら感じられる。 ドイツ在住(+25)
▪ 俺もミニマリズムが大好きだ。
 日本人はこの美徳のマスターだよね。 ドイツ在住(+4)
▪ ミニマリズムの極致だなこれは……。 ヨルダン(+15)


  (注)余計なおせっかい
  ミニマリズム
    最小の装飾で、最大の効果を生むデザイン、スタイル
    原義 minimum 最小の分割単位、最小限、極小

 失礼しました。続きをどうぞ



▪ あのシンプルな美を理解出来ない人もいるんだろうなぁ。 エジプト(+12)
▪ どうしてかは言葉では説明できない。
 だけどこの写真は、最高だ……。 エジプト(+12)
▪ 虚飾ってものを徹底的に排除するんだね……。 インド(+4)
▪ 日本はあれだけの経済大国なのに。いや、凄いや。 マレーシア(+7)
▪ ミニマリズムや謙虚さに関する預言者ムハンマドの教えを、
 日本人がサウジや湾岸諸国の首脳陣に教えているようだ!w 国籍不明(+10)
▪ 黄金とか、その他もろもろはどこにあるの……? フランス(+22)
▪ ハッとするような衝撃を受けたよ。
 自分の国と比べたら溜め息と猛烈な悲しみが襲ってきた。 国籍不明(+2)
▪ 湾岸諸国で行われる会見とは大違い。
 こういった違いが俺たちと日本との差だ! レバノン(+5)
▪ 同じことをやっているのにも関わらず、この差! アラブ首長国連邦(+5)
▪ ザ・日本っていう感じの光景だよね!♡ マレーシア(+2)
▪ 無駄が排除されてるのは、実用上の理由もあるんだよ……。
 飾りとかに邪魔されず、会話に集中することが出来る。 パレスチナ(+6)
▪ 天皇陛下にはキモノを着ていただきたかった!
 そしたらもっと素晴らしい写真になったはずなんだ! フランス(+11)
▪ 日本人のこの美的感覚よ……。 国籍不明(+16)
▪ なんて美しい写真なんだ。
 あれだけの完璧性を作り出せるのは日本人だけだよ。 国籍不明(+7)
▪ あのシンプルさは本来イスラム的なんだけどね、ヘヘ。 インド(+8)
▪ 古い歴史を持つ日本の皇族がスーツを着用し、
 新しく出来たモダンな王族が伝統的な衣装に身を包む。
 ものすごいコントラストだよな。 アラブ首長国連邦(+20)
▪ フォト・オブ・ザ・イヤーに決定。間違いない!!! エジプト(+7)


まだまだ続々とコメントが寄せられています。
会見の写真をあらためて見直してみても、「フーンそうなんだ」としか思えません。
私のコメントなど不要ですが一言だけ、テレビのナレーター風に言わせてもらえば
「マメスケ、日本ってホントいいわよね」




ガストン・ネサン裁判から思う事

ガストン・ネサン(現在92歳)は、祖国フランスから追放されて、自由な研究を求めてカナダへ移り住んだものの、そのカナダで1989年に医師会から告発されて逮捕され、独房へ1ヶ月間も投獄された後に、裁判にかけられました。
ネサンの資料実績の隠滅と終身刑を画策して逮捕し、その計画通りに終身刑を告げる結審の日に、裁判所の前には大勢の市民が押し寄せ、プラカードを掲げてネサンの無実を叫び、記者会見を開いて口々に不当な裁判を訴えました。
もともと無実のため、裁判所はごり押しが出来ずに結審を延期し、ついに無罪釈放せざるを得ませんでした。

この「ガストン・ネサン裁判」は、「完全なる治療」 著者クリストファー・バード(徳間書店)に詳しい。
読んでいて胸が熱くなる場面ですが、つくづく医療業界、製薬産業の途方もない圧力に暗槓たる思いが溢れます。


ガストン・ネサン(生物学者)が発見し、命名した「ソマチッド」は、血液中に有るもともと知られていた極小の微粒子で、摩擦などで赤血球から出る小さなゴミだろうと思われていたものですが、彼はその微粒子を研究し、ゴミではなく固有の生命体であり、その微粒子の変形異形がガン患者には多く存在し、それを正常な形に戻せばガンが治る事を附き止めました。研究の結果、「ソマチッド」を正常に戻すには楠木のエキスが有効であり、そのエキスを配分した溶液を「714-X」と名付けました。
つまり、血液を正常な状態に戻せばガンは治るという事です。
抗がん剤の薬害とは違い、自然樹液なので、薬害はまったく有りません。
30年も前の事です。今現在、医学研究が進んだと言われている抗がん剤の完治率は20%ですが、30年前の「714-X」は75%を越える完治率でした。
裁判で無罪を勝ち取る活動をした「ガストン・ネサンを守る会」の人々は、「714-X」投与によって完治した大勢の元ガン患者の人達です。


ガンが完治する?
いや、ダメだ。絶対に完治させてはならない。
製薬会社は、絶対に許しません。完治されては商売にならないからです。
今現在、ガンになると、治療費は平均で100万円を越えます。
最先端治療薬「ニボルマブ」は、年間3500万円の治療費との事です。
厚労省「国民医療費の概況」平成20年度・34兆8084億円(内分け、ガン悪性新生物の医療費/2兆8572億円)
製薬会社は巨大な財力を持ちます。
抗がん剤は巨額な利益を生みます。
その金の力で、政界、医学会、教育界を支配しています。

ネサンが発見した「ソマチッド」は、暗視野顕微鏡で覗けば、誰でも観察できます。
しかし、世界中の医学界は、実際に存在して誰でも見えるのに、この事実を無視し、黙殺しています。

ようやくカナダ政府は、「714-X」の使用を認可しましたが、末期がん患者に限定しての認可です。
日本は医薬業界の圧力に屈しているので、当然ですが医薬品とは認めていません。


この拙ブログを見て下さった方は、お時間がございましたら「医療現場の深い闇」(2013年8月28日)をご覧下さい。
革命的周波数ガン治療器を発明したロイヤル・レイモンド・ライフ博士への、製薬業界、医学界からの完膚なきまでの破壊工作、社会から葬り去った暴挙と全く同じです。

ネサン博士は、フランス医師会の政治的圧力による法廷への2度の呼び出し、不当な尋問の末の多額の罰金、研究室の閉鎖、器具、データー等の没収を強行して研究続行を不可能にしました。ソマチッド研究が出来る地を求めて渡ったカナダでも、カナダ医師会による弾圧にあったのが「ガストン・ネサン裁判」です。

製薬企業、医学界の圧力なのでしょうか。日本では、この裁判も、ソマチッドも、714-Xも、すべてのマスコミがまったく報道していません。

ガストン・ネサンの「ソマチッド論」
http://homepage3.nifty.com/sparrows/somatid.html


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願わくば、92歳の御高齢のネサン博士がご存命のうちに、名誉の回復と、医薬品としての認可を、心の底から切に希望し、心の底から切に祈念するばかりです。






強固な個人の意志

環境を守る。
自然を守る。
誰でもそう思うし、口でなら誰でも言えます。
前回、私がブログに書かなくても、地球が荒廃している事は誰でも知っている事です。

では、どうするのか。



たった一人の強固な意志が、奇跡を作った現実に驚愕し、ただただ深く畏敬するばかりです。

中村哲医師




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思うだけなら誰でも思う。
実際に行動できるかどうか。
結果を出すには、何年も年十年もかかる。
外国人が理想を語っても、地元住民を納得できるのか。
お金と資材はどうするのか。
結果の見えない、何年もかかる地道な作業を続けるには、情熱だけでは出来ない。
工具、技術の問題もある。

http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/kaiho/gogai2%20nakamura.htm


たった一人で立ち上がった偉人たち。
中国の不毛の地を農地に変えた、遠山正瑛氏
インドでグリーンファーザーと呼ばれた、杉山龍丸氏
ブータン農業の父と呼ばれた、西岡京治氏
 
誰も知らないし、報道もされない。
地位も名誉も、勲章も財も無縁の、無償の行為。
一人の想い、ひたすらな情熱。
強固な意志が奇跡を作っています。


国がやれる支援、法人組織がやれる支援、民間、個人がやれる支援、それぞれに役割はあるのでしょう。
私はODAやジャイカを否定はしません。道を作る事も橋を架ける事も大事な援助でしょう。
それなりに成果をあげている事も承知しています。

ODAやジャイカは外務省の外郭団体です。
ジャイカは千代田区2番町に6階のフロアを持ち、約8兆円の資本金が有り、1845名の職員(理事10名)が常勤しています。職員にはボーナスも退職金も出ます。当然のことです。
国際的な援助団体「ユニセフ」は、寄せられた募金の9割が、組織の維持費に使われ、残った1割の募金が難民費用に回されています。
赤い羽根、緑の羽根など善意の組織は色々ありますが、これらのすべて、大きな組織を維持するためには、それなりに維持運営費がかかるのは自明です。
「日本赤十字」の役員は、皇室関係者と高級官僚の天下りで占められています。
批判はありますが、それでも公的な支援機関は必要です。
大半の援助金が相手国高官のワイロ、組織に吸い取られています。口惜しいです。残念です。腹も立ちます。でも、でも、
それでも、銃ではなく一個のスコップ、一個のバケツを渡す事ができます。



中村哲医師の民間団体「ペシャワール会」で共に作業をしていた、伊藤和也氏(31歳)がタリバンに拉致されて殺害されました。
アフガニスタンのケシ栽培(世界の9割)はタリバンの収入源です。
中村医師は、地元住民に対して、ケシからサツマイモの栽培へと農業指導をしていますがタリバンはケシの収入が無くなるので、威圧妨害をしています。
伊藤氏の葬儀の時、地元の農民たち200人が、「イトーサン」「イトーサン」と故人の名を泣いて叫び、農具を手に持ち、タリバンに立ち向かって行きました。武装タリバンは遁走しました。

不毛の砂漠から緑の大地を取り戻す作業は困難な上に、テロの危険性の中での作業に驚くと同時に、安寧と守護を、天に願わずにはおられません。




人が住めば自然を壊し、ゴミが生まれる

うわぁーきれい!
行ってみたいなー

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モルディブは、新婚旅行の憧れの場所だそうです。
しかし、私は写真を見た瞬間に、ゴミはどうしてるのか?と思ってしまいます。
人が居る所、必ずゴミが出ます。
前人未踏の秘境といわれたエベレストの頂上でさえゴミだらけで、登山家の野口健さんが3トンものゴミを集めた記事は記憶に新しいですね。


このモルディブの美しい景色の裏側、ゴミはどうなっているのでしょうか。


これが楽園モルディブの裏側です。

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これが現実です。
ゴミ問題は、世界中で深刻な状況です。




先進国から、ゴミを受け入れている貧しい国が、いくつもあります。
西アフリカのガーナは、外貨獲得のためにヨーロッパ諸国からの廃棄プラスチック類のゴミを受け入れてますが、焼却の際に出るダイオキシンの害に苦しんでいます。

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ゴミの焼却が出来ない国は、どうしてるのでしょうか。
これはインドネシア、チタルム川です。
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焼却できないから捨てるだけです。
念のために、これは川です。

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人間の凄さは、生きるためには必死で生活しなければならない事です。
これが彼の毎日の職業です。

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もっと凄いのは、ゴミの川で遊んでいる元気なフィリピンの子供たちです。

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ゴミ問題に限らず、いわゆる公害問題、切実な水資源の枯渇や汚染、森林破壊は、私たちが想像するよりも遥かに早いスピードで、環境を破壊しています。
毎年、日本国土の半分にあたる森林が消失し、水は枯れてどんどん砂漠化している現実があります。
この地球は、私たち人間だけが住んでいるのではありません。


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住んでいた森林を焼かれ、全身を火傷したオランウータンを救えるのは、私たちの強固な決意しかありません。
日本は、過去の公害問題を克服した経験を持ちます。
汚染を克服した高度な技術を持ちます。
後進国の支援は、金と物に尽きますが、ODAだけでなく、もう少しきめ細かく、現地の人が生活出来て喜んでもらえるような、足が地に着いた支援をして行かねば、地球そのものが壊れてしまう時が、今目の前に来ています。



演奏スタイル(余話)

私は二人の師匠に師事しました。
浅野晴風師に師事しましたが4年後に亡くなり、その後、望月唖江師に師事しましたが、また1年後に亡くなられました。
両師共に短期間の教えでしたが、晴風師も唖江師も沢山の思い出があります。

演奏スタイル(2)での「自然の音との和音の共存」の記事を書いていて、唖江師のエピソードを思い出しました。


戦後まもない頃の夏の話です。
クーラーなど無い、扇風機は裕福な家庭にしかない、ただ団扇で暑さを凌ぐだけ、首に手拭いを巻いて噴き出る汗をぬぐうだけの時代です。

夏のまっ盛り。暑さを凌ごうと、在京の琵琶師たちが集まり、伊豆の河津温泉へ琵琶を持って出かけたそうです。
電車もまだ本数が少ない時代。小田原まで来て、伊豆急便鉄道に乗り換えて、ようやく河津に着きました。
閑散とした田舎の温泉宿が数軒あるだけ。
そこへ、琵琶の名人たち、名前を聞けば誰でも知っている有名な琵琶師たちが、颯爽と琵琶を抱えて降り立ちました。

ゆっくりと温泉に浸かった後は、それぞれが愛器を手に、思う存分の演奏会になります。
名人たちの、たっぷりな名演奏の数々。

共演のひとときが終われば、いよいよ宴会の始まりです。
料理を運んで来た仲居さんたちが名人たちの間に座って、酒を注ぎます。

唖江師の前に座った仲居さんが、酒を注ぎながら言ったそうです。
「先生が一番お上手なんですね」

唖江師は注がれた杯を下に置いて、
「おめえ、おべんちゃら言いやがって。むこうへ行きな」
師は、竹を割ったような江戸っ子、ヘイコラする御世辞が大嫌いです。

言われた仲居さんは、キッとなって座り直して言いました。
「私は今日初めて琵琶を聞きました。正直言って誰が名人なのか分かりません。でも、他の先生方が演奏してる時は庭がシンとしてました。先生が演奏してる時だけ、庭の虫が鳴いていました。だからこの先生が一番上手いんだと思いました」

「仲居の野郎、そう言いやがったのよ」
唖江師は、目を細めながら言いました。




演奏スタイル(2)

今現在ある琵琶の演奏スタイルは、3種です。
・胡坐をかいて横に抱く楽琵琶スタイル。
・三味線風に右膝から外に出して斜めに構える平曲、筑前琵琶に多いスタイル。
・両膝の間に置く、薩摩系、又は筑前琵琶のスタイル。

正座や胡坐、椅子に腰掛けて持ちますが、横抱き、斜め、立てて持つ。おおよそ、この3種が琵琶の構えです。

では、演奏スタイル(1)でのギター奏法のように、琵琶を寝かせて弾くことは可能でしょうか?

残念ながら、不可です。
柱(駒、フレット)が高すぎて、絃を押さえると、音がフラフラして安定しません。地震で地面が揺れているようで、気持ち悪くなります。

弓で弾くことは可か?

柱面が平らなため、バイオリンのような「かまぼこ型」半アーチ状で無いため、絃を一本だけ弾くことは出来ません。

では、バチの代わりは?

チター、木琴のマレットで叩くことは可ですが、左手は絃の音締めをしなければならないので、音楽としての可能性は難しい。

手でタッチすることは可ですが、絃と腹板との間が空いているため(バチで弾くには空間が必要)、絃で指が切れる恐れがあり、楽器も共鳴構造ではないので響かず、音の変化も乏しい。

中国琵琶は指での奏法ですが、
日本の琵琶は、バチ奏法での表現形態ですので、今の琵琶の形ではバチに変わる奏法は不可と思います。
したがって、バチ以外を求めるならば、琵琶の形を変えるしかありません。

今、私たちがしている演奏スタイルは、何百年も前から、各時代で生まれた名人たちが、楽器や奏法を研究し、磨いて来た結果であり、今のスタイルが究極でもあります。

琵琶を改良すると言うと、絃を増やしたり、柱(フレット)を足したりするだけの事で、そんな事なら誰でも考えます。
なぜ、昔の名人たちは、絃や柱を増やさなかったのか。その事を考える方が重大です。
なぜなら、増やさない、削る、最小限、それ以上減らすと楽器として成立しないという所までそぎ落した、もっともシンプルな構造こそが、琵琶の求めた世界だからです。

ちなみに、中国琵琶のフレットは現在31フレットですが、唐代は14フレットあり、江戸期には既に伝来していて明清楽として流行したので、当時の琵琶関係者は「フレットが多いと音が多くなる」事は当然知っていました。

それでも、絃もフレットも増やさない。
たった一つの音で全てを表現する、一音が世界を作るという考え方は、桂離宮の簡素な建造様式、能楽での所作などと共通する、単純化、簡素化の美意識、和ものの思想の根幹でもあります。
絃や柱を増やせば、多くの音が生まれ、西洋音楽的表現が出来ますが、現代では、そこばかり、西洋音楽を演奏の中心にし過ぎています。

逆に、音を作らない。増やさない。
「無音も、大事な音の世界」であるという認識こそが、和音の世界です。
「松籟」という言葉があるように、琵琶の1つ1つの音のあいだに、風の音や鳥の鳴き声も混ざり合える、場の混在、虫の音と共鳴する和の音、
日本の音の世界は自然との共鳴が根本にあります。
最近の琵琶奏者は、西洋音楽が音楽の中心だと思っているのか、平均律感覚で、チャラチャラ弾き過ぎます。


さて、琵琶の演奏は難しいと思われていますが、私は、世界の楽器の中では、それほど難しい楽器とは思いません。
私はいたずらでインド楽器のシタールやサーランギを弾きますが、こちらの方が遥かに難しく思います。

琵琶が難しいのは、楽器の方ではなく、「バチ」のさばき方の方です。
特に、薩摩系は「尺バチ」と呼ばれていたように、開きが30センチ前後あり、弾き方が至難です。
筑前のバチは4絃用と5絃用のバチがありますが、どちらも薩摩系より開きが小さいたために薩摩琵琶よりは弾きやすい。(それでも筑前の皆さん苦労してます)

以前、錦心流出身の平山万佐子師が、楽器を薩摩琵琶から錦琵琶に変え、筑前のバチで演奏してましたが、NHK邦楽育成会の5期生として新ジャンルの演奏を盛んにしていた時期で、彼女なりの取り組みだったと伺った事があります。
こうしなければ、西洋音楽出身の作曲家の要望には対処出来なかったのでしょう。納得する方法です。

「バチさばき」の言葉
叩きバチ、べたバチ、しゃくりバチ、返しバチ、押しバチ、引きバチ、切りバチ、流しバチ、、浮きバチ、引っ掛けバチ、すりバチ、
二重バチ、はったりバチ、留めバチ、揉みバチ、こすりバチ、

「バチさばき」という言葉が示すとおり、多くの言葉があり、バチのさばき方は実に難しい。
これらの言葉の多くが、悪い弾き方の名称です。
特に、残念なことに薩摩系の多くの人が、しゃくりバチの弾き方をしています。困ったものです。
琵琶界を見回しても、琵琶が上手いと言える人がいない現状に危機感を感じます。

バチの材料の柘植(つげ)も、年々高価になり、琵琶を始めようと言う人には、大きな負担になっています。
かと言って、椿や樟、柚須、楓では、粘りと固さに不服があります。こちらも困ったものです。
桑も象牙も、流通入手が困難になっています。

演奏スタイルの話から、話題を広げ過ぎました。
前回(1)での、捨ててあった壊れたギターを弾きこなす人が、琵琶界にも登場して、私の固定観念や懸念を打ち砕いてくれないものかと、密かに願っているのですが…
私が想像も出来ないような琵琶の演奏スタイルは、所詮、夏の夜の夢でしょうか。



演奏スタイル(1)

スペインの、と言うより世界的な大芸術家、パコデルシアの訃報を知った時は、大変なショックでした。
おととしの2014年、66歳の時です。
私と同じ歳のパコデルシアが心臓発作で亡くなったとのニュースには本当にビックリしました。

私とはただ年が同じと言うだけのことで、較べようもない余りにも偉大な足跡を残した伝説の人です。
誰もが認める「神」と言われた演奏者ですが、フラメンコギターの世界に革命をもたらした、不出世の大天才で、
彼の死をスペイン中の全ての新聞が、一面トップで報道しており、いかに彼が偉大であったかを、その時改めて知りました。
出身地のアルヘシラス市は、数日間喪に服したと記憶しています。



パコデルシアは、まぎれもないギターの頂点に位置し、フラメンコギターを志す人たちは彼を目標にして技術を磨いています。
それはそれでいいのですが、私が、ここで取り上げるのは、実は反対の事です。




技術なんか知らない、楽器も不備、仕事としての演奏ではない、
もちろん音符も読めない、と言うより、音符など知らない。
ただ心に溢れて来る音の世界を、自分なりにやっているだけ。


このギターは間違いなくゴミ置き場に捨ててあったものでしょう。
絃は一本だけ。それも細い糸は切れてしまったのか、太い絃が一本だけ残っていたのでしょう。
ペグ(糸巻)は、一個しかない。
そのギターも下側が大きく破損して板がへこんでいます。
それでも弾く。弾き方など知らない。誰かに教わった訳ではない。それでも曲になる凄さ。





この人も、自分勝手に弾いているだけ。
音楽がとても好きなのでしょうね。弾き込んだフレットは剥がれていて、しかもネックが反りかえっています。
後ろで聞いている人は亭主なのでしょうか、優しそうな人に見えます。弾いている女性が照れくさそうに弾いているのが可愛いですね。



この人も同じ弾き方です




この演奏スタイルなればこそ出来るスタイルです。



これだけ勝手気まま、自由自在に演奏する姿を見ると
ギターの正しい演奏スタイルとは何か、と疑問を持ちます。
ギターの教則本など、アホらしく思えて来ます。

極論を言えば、ギターはどのように弾いても良い、と言わざるを得ません。
では、「琵琶」はどのように弾くべきか。
琵琶の演奏スタイルは色々、勝手気まま、自由度があるのでしょうか。


文が長くなったので、(2)として続けます。


夏季演奏大会

私はこのブログで、私の個人的な宣伝広告は書かないと、大見得を切っておきながら、
今回は、宣伝です。
いい加減な奴、支離滅裂な奴、アホオヤジと嘲笑して、罵ってください。


平成28年度 夏季演奏大会
  日時・6月19日(日)
      正午開演
  会場・東京証券会館ホール
      地下鉄 茅場町駅(8番出口)
      中央区日本橋茅場町1-5-8
      電話・03(3667)9210
  料金・2000円
  主催・日本琵琶楽協会


私は「五月雨」(さみだれ)で出演いたします。


この「五月雨」の曲は、2月10日に突然亡くなった﨑村泰子さんが、この夏季演奏大会で演奏する予定の曲でした。

かつて、鶴田錦史先生が「琵琶って、重苦しいばっかりで、粋にならないのよね」と言われた事があります。
じゃあ、私たちの出番でしょう。
また、永田錦心先生が、「琵琶小唄」を晩年に模索していて、完成を見ずに亡くなりました。
じゃあ、私たちがやりましょう。

このお二人の先達に聞いて頂くために、﨑村さんと二人でこの一年間、「五月雨」を練りに練って、作って来ました。
五月雨を選んだのは、作詞者不詳である事と、短文であり、内容が歴史的な、いわゆる合戦ものと無縁である事、また誰も演奏しない埋もれたものである事でした。
この味気無い短い詞文を彼女は構築し直して、古今集や千載集から四首選んで嵌め込み、詞文を豊かに変え、今までの琵琶歌には無い世界を作りました。
それを元に私が曲や節を作って聞かせると、「そこはもっとこうして」とか「そのイメージじゃないわ」とか、ダメ出しが多く、節付けや間奏曲など何度も何度も作り直しました。

彼女のこの曲に賭ける情熱、入れ込み方、稽古量の多さは凄まじく、圧倒される思いで私も一緒になって取り組んで来ました。

今までにない、まったく新しい試み。
画期的な曲になったと、自画自賛します。
私一人では、ここまでの曲にはならなかったと思います。
この曲を、永田錦心、鶴田錦史の両先生に聞いて貰おう、と決意して取り組んで来た、彼女の6月の舞台にかけた意気込みの結晶です。

「どお?こんな曲つくったわよ、と呼び掛けたら、さぞや、お墓の中でお二人の先生はビックリなさるでしょうね」
「うん、平成の琵琶を聞いて貰おうよ」。「両先生、聴いたら何て言うかしらね」と言い合いながら、稽古をして来ました。


私は、日本琵琶楽協会主催での舞台演奏は現在、しておりません。
やらないのではなく、できないのです。
会報「琵琶楽」の編集に携わるようになってから、舞台に立っていません。
この3年間、ずっと演奏会場の隅で、全出演者の演奏を聞き、写真に収め、記事を書いて来ました。
私が舞台に立つ時間的余裕はありませんでした。



今回の夏季演奏会では、会報の編集も写真撮影も人に任せ、あらゆる事に優先して、私が﨑村さんの代演で出演します。
まさか、私が「五月雨」をやる事になるとは……
聞いてもらう人が、永田錦心、鶴田錦史、﨑村泰子の3人になってしまいました。



  五月雨 (さみだれ)   作詞・﨑村泰子
                 作曲・岩﨑玄龍
五月雨に、つまの名残もふり捨てて、
行方は遠き武蔵野の、しげる千草におく露の、涙に濡るる袖の雨、
かわくひまさへあら磯の、くだく思ひはそれぞとも、
いはての杜のほととぎす、夜深く鳴きていづち行くらむ、
血に鳴く程のおもひには、なべて伊吹のさしもぐさ、
もゆる思ひは陸奥の、人目を忍ぶ文さへも、心と共に乱れがき、
返す心の玉章を、ありや、なしやと言問はむ、
すみだの川の都鳥、君恋わたる今日の眺めを、
同じ浮世のうき身をば、神に誓をゆふだすき、
かけて妻戸のあけくれに、心かはらぬとこなつの、今は小梅に身をひそめ、
夢ばかりなる夏の夜を、寝もせで明かす五月闇、
いとせめて、恋しき時はむば玉の、夜の衣を返してぞ着る、
なれて逢ふべき君が代の、変らぬ御代ににほふ橘、変らぬ御代ににほふ橘




<まだコピーしかできない琵琶奏者> 様
「琵琶歌の歌い方」(付録)にコメントありがとうございました。
私に対して、「批判だけなら評論家と皮肉屋のネット弁慶」とのご認識のようですので、6月19日(日)の夏季演奏会には、是非、茅場町の証券会館ホールまでお越しください。
私の作る曲が、月並みな琵琶曲ではなく、異質異形である事を如実にお分かり頂けると思います。
私は業界内部からは「破壊者」と嫌味を言われてますが、琵琶を知らない人が聞かれたら、古典として聞いた、現代曲とは思わなかったと言われるような曲作りを目指しています。
時間的物理的な都合でお聞き頂けないようでしたら、「日本琵琶楽協会公式ホームページ」から事務局へ、私の曲の注文をしてお聞きください。(CDまたはカセットテープ、1曲送料込み2000円です)
ちなみに、この日本琵琶楽協会ホームページも、私が管理人をしています。



言葉の力

言葉の持つ力は決して大げさではなく、凄まじいまでに、完全に人間を支配します。
その代表的な例が、「戦争法案」のキャッチフレーズです。
正式名称は「安全保障関連法案」ですが、「安全保障」➡「戦争」の名前に変わり、国会周辺ではデモが盛り上がりました。
戦争のイメージだけを膨らませて、徴兵制反対、子どもを戦場に行かせるな、戦争反対の大合唱でした。
中身は戦争とはまったく関係ないのに、このキャッチフレーズを考案して発表した社民党の福島瑞穂さんに、座布団一枚!です。
この安保関連11法案は、閣議決定を経て、3月29日に施行されましたが、施行に必要な26本の政令も一括改定されました。

ようやく日本も、平和を守る自主防衛の気分を取り戻す道筋が出来て、ホッとしてます。
この「安保法案」の成立に、インド、オーストラリア、ベトナム、フィリピンなど51ヵ国が賛同、歓迎表明をしてますが、反対している国は中国と韓国、北朝鮮の3ヶ国だけというのが笑ってしまいます。
つまり、この3ヶ国だけが自国の得、利にならないから反対してるわけですが、「戦争法案」反対を叫んでいた人は、日本の国益よりも、これらの国の国益を求める日本人?のようで、同じ日本人としていつも不思議に思っています。
私は平和である事、祖国日本の平和を命がけで守る人間でありたいと思っていますが、
守らない事が平和だと思っている人に、愛国心とは何かと問うてみたい気持ちです。


話がちょっと滑りましたが、テーマは言葉の力です。
この絵を見て下さい。

             「楽しき国土」
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そうです。19歳の作者、関根正二君は、この絵を描いて、「楽しき国土」と名を付けました。
この題名の「楽しき国土」を見た彼の友人が、「月並みで、ちょっと安っぽい題名だな」と笑い、少し考えて「信仰の悲しみ」との言葉をひねり出して、題名を変えさせました。

以後、この絵を見る人は、「乙女たちが楽しく花を持って歩いている」とは見る事が出来ません。
題名から、「信仰上の悩みを抱いて歩いている深刻な表情をしている乙女たち」と思って見てしまいます。
これが、言葉のマジックです。

「楽しき国土」の題名のままだったら、この絵は果たして国の重要文化財になったでしょうか?


もう一例をあげます。
ポーランドの作曲家ペンデリックの作曲した「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」という曲があります。
私は音楽的感性が鈍感なのか、この曲が名曲だとは全然思えませんが有名な曲です。
つまらない平凡な曲だと思ってますが、ではなぜ有名なのか。
もうお分かりですね。

彼は全く別の意図、構想のもとにこの曲を創作し全然違う題名を付けましたが、ポーランド国立交響楽団が初来日する時に、同じ作曲家の森下眞一氏のアドバイスを受けて、日本にアピールするために曲名を変更しました。

聴衆は、バイオリンが鳴り出すと、もう広島の惨状を頭の中から払い去る事は出来ません。
これが言葉のマジックです。


言葉は人を支配します。
催眠術も、言葉で誘導します。
辛いものを甘いと言ったり、嫌いな食べ物も、美味しいと言ってムシャムシャ食べさせます。

人間の脳は、言葉の意味を必死に理解しようとするからです。
相手を喜ばせるのも怒らせるのも、言葉です。
しかし脳そのものは、言葉の主語を理解出来ません。
相手を罵る言葉は、自分の脳では、相手ではなく自分自身への言葉になります。

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新皮質(理性、知性)を新しい脳、それ以外を古い脳と言いますが、
新しい脳は主語を認識出来ても、感情を司る「古い脳」のほうは主語が認識が出来ない。
つまり、自身が発した言葉すべてを、自分の事として捉えてしまう。
人の悪口を言うと、自分が傷つくのです。

逆に言えば、相手を褒めれば、自分を褒める事になります。

すべては、言葉次第。
言葉の持つ力、これが生きて行く上での大切なエネルギーの源です。

そう言えば、世界的な永遠のベストセラー、聖書の書き出しは、

”はじめに言葉ありき”

で始まりますね。
言葉は、言霊(ことだま)とも言います。

日蓮さんは、「禍(わざわい)は口より出でて身を破り、幸いは心より出でて我を飾る」と言っています。
私も、残り少ない人生ですので、日々、心して、会話をしていきたいと思っています。




知的好奇心

私の友人(75歳)が、実母(97歳)の介護をしている。
施設に預けずに自宅で介護をしているとの事なので、その大変さは、私も経験があるのでよく分かります。
その友人も持病があり、「老老介護は大変です」と嘆いている。

車椅子の乗り降りも大変との事で、「年々委縮、緩慢が酷くなるのが目に見えて分かり、気丈な母なので、本人が一番つらいと思います」と言っています。

いつどうなるのか分からないので、母の身の回りの整理をしているとの事で、その母が書いたという何冊かの大学ノートを見せてもらいました。
誰に見せる訳でもない、目的もない、ただ気ままに鉛筆で走り書きしただけのノート。何十冊もあるそうです。


見て、絶句しました。

例えば、平成14年10月、の記載。(83歳の時)
「富士の傘雲」との表題があります。

甲府の友達から、きょうは富士の笠雲がきれいだったと、電話をもらった。
笠雲は名のとおり、山頂が被る笠様の雲で秋から初冬にかけ発生が多い。
昭和の初めに、御殿場に私費で観測所を設け観察を続けた人がいる。
後に初代気象研究所長、故安倍正直博士で多年をかけ、富士の笠雲を20に分類した。
名前からは、それぞれの雲のかたちが浮かんでくる。
蓋(かぶり)笠、 二蓋笠、 三蓋笠、 横筋笠、 レンズ笠、 破風笠、 割れ笠、 
前掛け笠、 かいまき笠、 離れ笠、 うねり笠、 波笠、 ひさし笠、 

以上13種、笠の形の変形。
残る7種は、笠というより奇抜な西洋帽子風で、
積笠、 鶏冠笠、、乱笠、 吹出笠、末広笠、 渦笠、 尾引笠、 と言う。

分類図では、例えば、尾引笠は富士が短い雲の吐息をもらしたようでユーモラスだ。

気象学でいう世界10種雲形では、博士の20種類は「高積雲」の一言で片付けられる。それを細かに分けた心の一端を、博士は、「雲の美しさは、自然の理に従い嘘のないことだ。眺めていると世の雑事は忘れてしまう。世の中からの逃避ではない。嘘のない姿を雲に学ぶのだ。」と言った。
笠雲の翌日は雨と言い習わす。山にぶつかって笠雲となる水蒸気は、湿った気団の接近を告げる。その通り富士山麓だけでなく、東京も雨になった。
雨後には、秋高しの、空と雲とが広がった。




次のページをめくると、「正月事始め」と書いてあります。

正月事始めは、12月13日で、昔は、お正月の支度はこの日から行うものであった。
「松迎え」といって年神様の依代(よりしろ)となる松迎え用の松を山に伐りに行ったり、ささ竹を束ねたものや、竹ざおに藁をつけた道具で、家中のすす払いをするなどのことは、この日に行われる習慣であった。
何から何まで自らの手で準備をする時代なればこその習慣ではあるが、正月の支度は、やはり早くから段取りよく進めたいもの。
昔から言われていることに、「正月飾りの一夜飾りはいけない」と言うのがある。これは葬儀の場合が一夜飾りだからだ。
葬儀は不意に訪れる不幸なので、祭壇のしつらえとか飾り付けは、どうしてもその日一日になってしまう、つまり一や飾りである。
めでたい日であり前々から準備できる正月のための飾りは早めにしようとのいわれだ。
また押し詰まってからバタバタするなどの戒めでもある。
そんなわけだから正月飾りは、鏡餅など含めて習慣どおり30日には飾り終えるように。
29日は二重苦と、苦が重なるのでこの日は避けた。
またかつては、それぞれの家が地域で行われていた餅つきも、31日につくのは一夜餅と言って、これも弔事に通じるとして嫌われていた。
今は自宅で餅をつくケースはなかなかないと思うが、頼んでも、買ってくるにしても、いづれの場合であっても、27、28日ごろにはすっかり整えるようにした方が安心。
鏡持ちは30日に、飾り終えてほこりよけの布か紙をかぶせておく。


次のページには、また違う話が書いてある。

自作の和歌や俳句などを綴った大学ノートも数冊あるとの事。
まったく無名の、市井のおばさんが、日々思いつくままに書き溜めた大学ノート

今は、グーグルなどをネットで検索すれば、何の苦も無くすぐに分かる時代ですが、この世代の人達は、分からない事を調べようとすると、辞書で調べ、もっと詳しく知ろうと思えば、図書館へ出かけて行って納得するまで調べるのが当然の行動であり、時間と労力を使って少しづつ、コツコツと調べるしか知識を得る事は出来ない、又それが「ものを知る方法」として当り前の事だと思っています。


苦労して手に入れた知識を自慢するわけではない。知ったかぶりすることもなく、淡々と大学ノートに綴るだけ。
学ぶ姿勢。学問への謙虚な探求。
この思いに溢れた、日々の不断の努力が詰まった大学ノートに圧倒されました。


町ですれ違っても気づかないような、地味で目立たないごく普通のおばさんが書いた、何十冊もの「積み重ねた生きた記録」
車椅子で難渋している様子を想像すると、世の常とは言え、私もせつなくなります。


近所の図書館に行くと、高齢者たちが熱心に読書している姿は私も見てますが、こういう普通のおじさんおばさん達が、私たちの周りには意外なほど居て、それぞれが知的好奇心を人に知らしめる事も無く、関心事を黙々と調べたり、収集したりして、家族にも知らせる事無く、寿命が尽きて亡くなっています。遺品を見て、「ヘーエ、オヤジはこんな事を研究してたのか」と驚いたというような話は、時々聞きますが、本人だけの関心事、人生の楽しみ方なのでしょう。

羨ましい限りの人生の充実ぶりだと、老境にさしかかった私は、素直に称賛するばかりです。




世に知られるという事は、知らせた人がいたから

杉原千畝氏が戦時中にビザ発給をして、多くのユダヤ人を助けた話は有名になりました。
在リトアニア外交官であった杉原氏は、ナチスから逃れるユダヤ人約3500人に通過ビザを発給しましたが、この話は、今冬、唐沢寿明さんが演じる映画になり、話題になりました。


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この実話が、多くの人に知られるようになったのは、実は、ごく最近の事です。
杉原さんを、世の中に知らせた人がいたからです。
鈴木宗雄氏が、杉原さんを世に広めました。

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鈴木宗雄氏が平成3年、外務省政務次官の時に外務省へ働きかけて、杉原氏の業績として認めさせ、名誉回復をさせました。
業績の復権に44年もかかったのは、杉原氏が「外務省訓令違反をした」という認識のため、外務省内での反対意見、反発圧力が大きく、省内を認めさせるには大変だったとの事です。

詳しくは、以下のサイトをご参照下さい。
http://www.nippon.com/ja/people/e00080/


杉原千畝氏は昭和22年6月に外務省を退職していますが、懲戒免職ではなく、依願退職です。
杉原さんの親族のインタビューなどを聞くと、「訓令違反」のため、辞めさせられた、とお身内の皆さんは今でも思っているそうですが、内情はちょっと違います。
杉原さんは、いわゆるノンキャリアでした。
戦後の混乱期には、多くの人が失職しましたが、役所も組織の縮小のために大勢の人が失職させられました。
外務省も例外ではなく、外交官2200人のうち、辞めさせられた700人は全員がノンキャリア組です。
いわゆるキャリア組の外交官は、一人として辞めさせられた人はいません。
この露骨な扱いの差別は、厳然として存続している日本という国の公務員の実体です。


さて、鈴木宗男氏の尽力により、ユダヤ人にビザ発給した杉原さんは有名になりましたが、
関東軍の樋口季一郎少将の業績を知る人は少ない。

樋口少将は2万人ものユダヤ難民を助けました。
しかも杉原千畝氏よりも2年も前の行動です。

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昭和13年3月、モンゴルと満州の国境にあるシベリア鉄道のオトポール駅に、ドイツ、周辺諸国から逃れて来たユダヤ難民2万人が、満州国を目指して集まり溢れ返っていました。
しかし、満州国政府はドイツとの関係悪化を恐れて、入国を拒否しました。
厳寒の3月、凍てつく吹雪の中、飢えと寒さのなかで凍死者が続出していきます。
ハルビンで服務に就いていた関東軍特務機関長の樋口季一郎少将の元に、この惨状が報告されます。
すぐさま樋口少将は、満鉄総裁に諮り、「臨時救出列車」を発動させてオトポール駅に向かわせます。
13回も往復させて、2万人全員を救出しました。
ユダヤ難民は、厚く歓待され保護されて、満州国から上海、更にはアメリカへと渡って行きました。

この件はドイツ政府の知るところとなり、ドイツ外務省から抗議文が届きます。
陸軍省や外務省は、外交問題に発展する事を恐れて、彼の「独断行為」を重く受け止めます。
ただちに樋口少将は、関東軍司令部に出頭を命じられますが、当時、上官であった東条英機参謀長に対して、政治的判断ではなく、人道上の問題として行動したとの説明をします。
東条司令官はその行為を認めて、樋口少将を擁護する立場に立ち、ドイツの抗議書に対して、「当然な人道上の配慮によって行ったものである」と一蹴しました。

その後、対ソ連戦(ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して樺太へ攻め入った)で、樋口少将は北部司令官として指揮し、占守島の戦いではソ連軍に多大な損害を与えました。
ソ連は、樋口少将に対して、樺太侵攻時の損失、オトポール事件などでの恨みや敵愾心を持っていて、東京裁判の時に、戦犯として樋口をソ連に引き渡すよう強硬に要求しますが、これを聞いたアメリカの世界ユダヤ人協会は、米国務総省に強く働きかけて、ソ連への引き渡し要求を拒否させました。

樋口季一郎氏は、日本帝国陸軍の軍人のために、世に知らせる人は少ない。
それどころか、軍人は評価しないとする愚かな意見が大半です。

エルサレムにある「黄金の碑」、ユダヤ民族に尽力した人を称える記念碑には、樋口季一郎の名前が刻まれています。




世に知らせないため有名にならない人がいる反面、嘘を広めたために有名になった人もおります。

中国人外交官、何鳳山(か ほうざん)は、ユダヤ人救助をしたことは無いのに、嘘の宣伝によって、「中国のシンドラー」として有名になってしまった人です。

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何氏はウイーン駐在外交官でしたが、1938年から40年にかけてビザを発給して3000人のユダヤ人を救ったと言われていますが、作り話です。
38年は南京陥落の翌年、つまり日本の支配力が中国全土に強まっている中で、上海への入境可能なビザを発給しても、重慶政府の発給ビザは効力を持たないし、何よりも、ウイーンの中国領事館には、何氏がビザ発給した事を証明する証拠資料がまったくありません。
何氏のビザ発給について誰も知らず、彼自身何も語らずに1997年に亡くなっています。

では、なぜ作り話が広まったのか?

各地での巡回写真展を行っていた興行師、エリック・サウルが、「命のビザ、正義の外交官たち」のテーマでの巡回写真展開催の時に、何氏の功績として作り話をでっち上げた事が、世に広まった原因です。
すべては、宣伝効果(プロパガンダ)の力です。
恐ろしいばかりの嘘の力は、南京虐殺、慰安婦報道で私たちも承知していますが、日本人は優しいからつい黙ってしまいがちですが、世界は「認めたから黙っている」と認識します。日本を守ろうとしない日本外務省の怠慢、無気力さには腹立たしいばかりです。




ラウル・ワレンバーグ (34歳で消息不明)
アメリカ合衆国は、200年の建国歴史を持ちますが、たった7人しか名誉市民がおりません。
その7人の中の一人がスウェーデン人、ラウル・ワレンバーグ(ラオル・ヴァレンベリ)です。
スウェーデン人の外交官で、ハンガリーで10万人のユダヤ人を救出しました。
ドイツ軍撤退後、進駐してきたソ連軍に連行されて、行方不明となります。
スウェーデン政府は、戦後に消息不明としたまま放置しましたが、ユダヤ人協会が中心となって、今も捜索が続けられています。
母マイは、ラウルを見つけられない事に絶望して、1979年に自殺しています。

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ソ連に連行され収容された牢獄で病死したと言われていますが、遺体も証拠も不明のため、70年経った今も、捜索は続けられています。





イレーネ・センドラー (1910~2008) 98歳没

どこにでも居そうな、このおばちゃんのどこに、途方も無い不屈で強靭な精神が漲ってるのかと不思議に感じます。
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彼女は戦時中、レジスタンス活動をしていて、社会奉仕の仕事を利用してゲットー内に入り込み、ユダヤ人の子供たちをスーツケースやスカートや袋の中に隠して連れ出し、2500人の子供たちを救出しました。
しかし救出活動が分かりゲシュタポに捕えられて、「レジスタンス活動の内容や子供たちの隠れ先」を連日、激しく拷問されて問われますが、黙秘を貫きます。
レジスタンス組織が門兵にうまく賄賂を渡して、奇跡的に彼女を開放させる事に成功します。
彼女が発見された場所は、ゲットー側の森の中で、ボロ雑巾のように両手両足が叩き折られて、意識不明の状態で、捨てられていました。

戦後、ポーランドは共産主義体制になり、イレーナさんたちの地下組織の存在そのものが、体制側にとって危険な組織と見なされた為に、イレーナさんの活動は隠されて、永い年月、まったくの無名でした。
たまたま、アメリカ、カンザス州のユニオンタウン高校の4人の女子高生たちが「歴史コンテスト」の題材を求めてネット検索をしていて、イレーナさんの小さな昔の記事を見つけます。これがが元で、たちまち世界の知るところとなりました。
ポーランド本国でも注目されて政府から「白鷲勲章」、イスラエル協会からは「騎士十字勲章」の恩賞を受けました。




人間の尊厳、人道主義、人命救助、無償の行為、正義感、助けを求める人に手を差し伸べる。
言葉は美しい。
しかし、人を救う事によって、自分の身の危険にさらされる現実がある。
上に挙げた人達だけではなく、誰にも知られる事なく、救助した人は大勢いただろう。
また、救助に失敗して殺された人も大勢いただろう。


助けを求める人に、私は手を差し出す事が出来るだろうか。


ポルトガルの外交官、アリスティデス・ソウザ・メンデス (1885~1954)は、3万人以上のユダヤ難民にビザを無料で発給しましたが、ポルトガル政府の命令に逆らったため、懲戒免職されます。国家反逆罪として職を追われ、近親者からも非難されて、違背者の汚名のまま、失意のなかで亡くなりました。





<私信>
私が琵琶を教えている弟子たちの会、薩摩琵琶龍子会の代表を務めていた﨑村泰子さんが突然に亡くなって、49日が過ぎました。
うつ病とは、こういう事かと実感しています。
涙は枯れるまで泣きましたが、でもまだ、夢の中でも、泣いています。
枕が涙で濡れているのを見て、びっくりしてまた泣いてしまいます。
悲しさ、淋しさはどうしようもなく、打ちのめされています。
歯を食いしばりながらも、深い血の溜め息しか出てきません。

共に琵琶の稽古をしてきた女性ですが、女性として意識した事も無い、同じ目標を掲げて、励まし合って共に戦う、同道の仲間であり、
公私にわたり助けてもらっていた同志であり、戦友と呼べる、無二の、心の底から尊敬する友でした。
何も言わずとも、呼吸の仕方、顔色で、お互いが、すべて理解できる友でした。
時には烈しく言い争い、何日も連絡を取らず無視し合っていても、いつの間にか話をしているのが自然の事でした。

このブログを開設する時、食べた見た、行った聞いた、うまいまずい、たぐいの、そこらじゅうに溢れている安易な「日常のありふれた感想、私生活、心情」は、絶対に私は書かないと決めて、このブログを書いて来ました。

初めて、私生活、心情を晒します。
心があまりにも苦しくて、もうやめようとブログの閉鎖を一度は決めましたが、思い留まりました。
友の偉大さを知っている私は、友の偉大さを伝える役目があるのではないか。
伝えなければ、知る事、知らせる事は出来ない。
そう思って、2ヶ月ぶりにパソコンを開けました。

それが、今回書いた動機のすべてです。







毎度毎度のこれもなーんだ?

前回の続きです。
最終画面で使った映像について考察します。


まずは、この2つの映像をご覧ください。







見てお分かりのように、2つの内容は全く同じです。
下方は仕掛けを種明かしをしてるので
上方の、バスでの映像を検証してみます。

・まず、カメラの位置が不自然ですし、途中でのアップの仕方、遠景に戻したりする操作も、次に起こる事を事前に承知して操作しているプロのカメラワークです。
 バスの窓から顔を出す2、3人の男がいますが、カメラ直前の男だけが撮影の妨げになるので引っ込めさせています。
 つまり、撮影が最初から仕掛けてあり、これから始まる事を前提にしているカメラ設定です。
 
・先頭に降りた女性二人は行かずに振り返って立っている。
 立ち去らずに立つのは、これから始まる事を前提にしています。
・バスから降りた人の全員が去らずに円状に囲んでいます。
 誰も行こうとしない不思議さ、誰も散って行かない不思議さ。
 つまり、バスの乗客全員がエキストラなのでしょう。
・手をかざす女性をよく見て下さい。
 暴力を受ける時は、本能的に首をすくめ、防御で身を守ろうとする手つきになるのが自然ですが、
 この女性は、初めからスッと手だけを出します。
 この動作は異常です。何度もリハーサルをしたのでしょうが演技が下手なため、身を守るのではなく、いきなり手をかざしてしまいました。背筋がまっすぐで、身の危険を感じません。動きに緊張感がありません。
・飛ばされる男性の背中が、飛ばされる瞬間、背中の服が後ろに引っ張られています。
・上にずり上げられる時も、背中の服が上に引き上げられています。
 マジックでは、髪の毛より細いピアノ線を使いますが、人の目では全く認識出来ません。
 たぶん、極細ピアノ線でしょう。
・後ろの屋台の品々も仕掛けられていたのでしょう。下映像のアメリカ版コーヒーショップと同じ仕組みです。


何度も見直して検証しました。
俺って暇だなぁと、我ながら呆れました。
でもまぁ正月だから、いいかな。

何度も見た結果発表です。!
前回ブログで使用した映像での、このバス乗客映像は、不思議現象ではなく、「やらせ」であると断定します。

他に取り上げた映像については、まだ不明ですが、
例えば消える映像、日本映像での道路わきに駐車している撮影者の横を、通り過ぎたトラックが光の中で消える映像の場合、
編集で、光度(明るさ)を最大にすると、画面がすべて真っ白になるそうですが、この場合も編集で加工したのでしょう。
つまり走り去るトラックの途中から切り取り、いなくなってからのフィルムを合わせて、つなぎ目を一瞬の最大光度にしたのでしょう。「めくらまし」という事でしょう。
全部の映像の検証は出来ませんが、
おおむね、他の映像も編集での加工細工の可能性が高いと思われます。


不思議な事の九割は、意外に単純なマジックとの説が一般ですし、怒る人や不快に思う人もおりますが、でも不思議な出来事は、人々をびっくりさせ楽しませているのも事実ですし、マリックさんやセロさんたちが人気なのも頷けます。

我々人間は、マジックを見て驚き、楽しみますが、知能の高いオランウータンは、びっくりしてひっくり返ってしまいます。

オランウータン




猫はどうでしょうか?


さすがに猫様ですね。マジックにまったく関心をしめしません。
フン、それが何よ。
世界がどうなろうと、知ったこっちゃないわよ。
素晴らしい!さすが猫様です。

 
では、犬の場合はどうでしょうか?


ンー、可愛いけど微妙ですね。
猫派と犬派に、好みが分かれそうです。

騙し騙されるのは世の常で、その都度笑ったり怒ったりしますが、
何処までが笑いで済ませられて、どこからが怒りになるのか。
地域や人種、時代や環境、私たちの心の基準が一番不思議なのかも知れません。




新年が明けても、これはなーんだ?

新年になっても、分からないものは、理解しようがない。
平成28年の今年も、フーン?と言うばかりです。
「夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か」とでも言うのでしょうか。

まずは、ご覧あれ。




何度見ても不思議ですが、
助けた人は同じ人?




このフードを被った人は、様々なシーンに登場していて、
場面を集めて提起している映像がありました。




重複する場面もありますが
これもフード帽青年捜しです。




テレポテーションと言うのでしょうか、
他にも、沢山ありますね。




こんなに有るんですね。





まぁ 面白いと言えば面白いんですがね


 


笑っちゃいけないけど、これも不思議です。
なーんでみんな、ぶつからないのかな。




これって、何だろう? カメハメハ…?
見ている私たちより、彼女自身が一番驚いてますね。




見ていて、フーン?と思いながらも、見終わっても、???…
世の中、どうなってるのと思うばかりです。
やれやれですが、でも平成28年が消えて昭和や明治時代になる事はないでしょう…?

では、28年が29年になる事は?
もちろん有り得ない…ですよ、ね???




私たちの心

このユーチューブの映像は、特殊な場面ではありません。
今はただ、私たちはちょっと忘れかけていただけです。

ありがとう。忘れかけていた私たちの大切な心を、この映像は思い出させてくれました。






一時間に一本しか来ない単線の北条鉄道、法華口駅。
この光景を偶然に見かけて、撮影して投稿した外国の旅行者の映像に対して、

・手の振り方がまさにロボットで萎えた
 マニュアルみたいなのあるのか知らんけどやりすぎ
・もうちょっといろいろと安全確認した方がいいんじゃね?
・運転士さんにペラペラくっちゃべりかけて、時刻の確認するの怠ってる。
 プロとして失格な駅員の映像
・本当に駅長なのか、無許可で駅長のフリして乗客を騙してるのか
・なんで見えなくなってもまだ手を振ってるのか
・何か妙だな
 服が体にピタッとしすぎてクネクネして何か変に色っぽくね?
 不自然極まりない
・もっと自然に手を振ってほしいな




8つの駅で結ぶ北条鉄道は、終点の北条駅だけが有人駅で、残りの7つの駅は全部が無人駅でした。
途中にある、この小さな法華口駅も無人駅でした。

美也子さんは、この法華口駅のボランティア駅長です。
彼女は妊娠出産を機に、自立の道を探し求めます。
出会ったのが、米粉での料理。彼女は米粉料理の研究家へとなっていきます。

加西市の福祉法人による地元産の品種でのイベントに参加し、米粉パンを作りました。
そして加西市の地域活性化計画を知り、福祉法人の職員となって障害を持つ人たちと共に、地元産米粉のパン作りを始めます。
そしてパン工房の開設計画を考えている時に、北条鉄道が利用者確保の一環としてボランティア駅長を募集している事を知ります。
即、応募。
無事に審査をパスして、「駅舎パン工房~モン・ファボリ~」が誕生しました。


映像での彼女の服装は、帽子も服も前掛けもパン工房のユニフォームです。
電車が到着した時だけ、急ぎ手袋を嵌めています。
車掌のいない1両だけのワンマン車両。運転士がドアを開け、確認してドアを閉めて発車します。
運行責任、安全責任は運転士の任務です。
ボランティア駅長に、詳細な服務規則があるわけではありません。

遠く離れて行く電車の窓から手を振る彼女を見た時、小刻みに手を振っていては動作が分かりません。
小さくなっていく駅長の姿を見て、かろうじて分かるのは、ゆっくり大きく振る手、白い手袋です。
この手の振り方になるまで、彼女はどれだけ手を振って来たのだろうか。
いつまでも手を振ってると思うかも知れませんが、電車の音が線路からまだ伝わって来るのです。
彼女が手を振るのをやめても、見送っているのは、電車が見えなくなっても、まだかすかに電車の音が聞こえているからです。
音が完全に消えた時、彼女は踵を返します。

他の映像で見つけましたが、北条鉄道は単線ですので、左に走り去る電車には右手を振ってますが、右方向に去る電車には、彼女は同じ姿勢で左手を振っています。

小さな駅のパン屋さん
失礼ながらどれだけの営業なのでしょうか。
学生などの朝夕のわずかな乗降客。食べ物などはパンを買わずとも、米も饂飩も蕎麦もあります。
田舎で、そんなにパンが売れるのだろうかと余計な心配をしてしまいますが、しかし、美也子さんの笑顔は、そんな無用な心配など吹き飛ばしてしまいます。
ありがとう。ボランティア駅長さん。
美しい姿勢に、心から尊敬します。
美也子さん、貴女は凄い人だ。

ありがとう。美しい心
ありがとう。私たち。美しい心を持った大和の民
おもてなしの心を持った、美しい民族
日本人である誇りを、思い出させてくれました。


フェースブックをしてる人は、法華口駅ボランティア駅長 を検索してみて下さい。
お友達になれるかも知れませんよ。


深い闇をちょっとだけ覗く (3)

カバンの中身の米国債とは、「M資金」と言われているものです。
戦後の政財界を巻き込む詐欺事件には、必ず登場する言葉ですね。

敗戦後、財産の接収を怖れた軍部は、東京湾、越中島の海底など、各地へ隠蔽したとされていますが、実際に越中島の隠匿物資は米軍によって1946年4月6日に発見回収されて、この事は公けになりました。
M資金は、これらと四谷資金、キーナン資金、G資金などを統合したものとも言われています。

Mの文字名は、財産の摘発徴収を陣頭指揮したマーカット少将の頭文字とも、マッカーサー元帥の頭文字とも言われますが、真実の名は、舞鶴、のMです。

なぜ、舞鶴か。

それこそ公けにされなかった話です。
越中島にも隠匿しましたが、舞鶴に隠した中身は桁が違います。

金250トン。銀100トン。白金70トン。水銀500瓶。宝石、貴金属500トン。
タングステン300トン。タングステンラグ50トン。錫350トン。など。(積載項目は旧日本海軍内部資料に存在します)
現在、時価にすると20兆円を遥かに超える金額です。

これらの物資を、横須賀日本海軍基地の地下倉庫から、第2氷川丸(旧オランダ病院船・オプテンノール号)に積み込み、傷病兵の移送と偽り、青森経由の北回りルートで1945年8月28日に、舞鶴軍港に着岸。
残りの最終物資を積み終えて、31日夜半に出港。
若狭湾の冠島、北東海域で停船。キグストンバルブを抜いて水深120メートルの海底に沈めました。


しかし、GHQの知るところとなり、米軍潜水艦で全物資が回収されます。
平成8年に、民間会社の海底調査で、沈没船の船腹22ヶ所の切断箇所と、船内には物資のかけらも無いことが確認されました。


日本から接収したこれらの財産は、CIAで管理されてワシントンに運ばれ財務省の管理下に置かれましたが、
その後、米政府が日本支配を徹底するために対日資金として米国債に形を変えて、1960年代に一括返還されました。
つまり、戦後の日本の政治はアメリカに買われたのです。

日本に戻されたM資金は「還付金管理財団」と称して、大蔵、日銀が極秘管理しますが、当然ながら好き勝手には使用出来ません。
売却、使途には、その都度、CIA東京支局(アメリカ大使館)の事前承認が必要です。
この監視を嫌って、田中角栄氏はシリーズ57債と呼ばれる日本国債の引き出し権として、「還付金残高証明書」を発行させて現金化しました。
この資金で、インドネシアから石油を輸入する計画でしたが、メジャー、米政府の逆鱗に触れて、政治生命を絶たれました。ロッキード黒いピーナツは罠です。

その後、CIAの監視は厳しくなり、事実上この米国債は凍結されていました。
つまり、「机の埃りの引き出しのもの」がこれです。


フランツ・ガイトナー国務長官は、TARP(不良資産救済プログラム)の資金不足に困っていましたが、この返還米国債に目を付けます。そして供与を強く迫りますが、日本政府は拒否していました。
ローマでの2月13日の中川・ガイトナー会談も、この話の延長だった事は前回に書いた通りです。
2009年の衆院選で民主党への政権交代が確実になると、政府、財務省は秘密会議でスイス隠匿を決定、実行しました。
それがイタリアで捕まった事件の全貌になります。

政権交代した民主党が、増税しなくても「埋蔵金がある」と言っていたのはこの返還米国債の事ですが、現実はアメリカに奪い取られていて、いくら探してもどこにも無かったという事です。


事件のあらましは以上ですが、なぜアメリカが日本からの米国債持ち出しを知り、スイス入国寸前で強奪する事が出来たのか。


これからは余談です。
NSA(国家安全保障局)運営のエシュロン、プリズムという盗聴システムがあります。
最近、エドワード・スノーデン氏の告発で多くの人の知るところとなりましたが、常時、世界中の言動が監視されています。米国は渋々プリズムの存在を認めましたが、エシュロンの存在はコメントすることを否定しています。

グーグルなどで単語を書き込み検索をすると、たちまち0、何秒の速さで、多くの項目が出て来ますが、民間企業とは違い、NSAの軍事目的のコンピューター性能は桁違いの怪物です。
私たちが何気なく話している言葉1つでも、盗聴検索項目に該当すれば、その人間のすべてが調べられます。
私がこのブログに「M資金」と書いた事も当然ヒットしています。
そして、私のこれまでの言動のすべて、生活環境のすべてが調べられています。
何だ、こんなアホな芸人。誰も知らないような奴は放っとけ。で済むでしょう。
では、済まない人は、どうなるのでしょか。

新聞に載らないような、あるいは載っても2、3行の小さな死亡記事になります。
プロのヒットマンとは、自然な死を偽装できる人です。
スパイ映画でドンパチするような派手な場面は、現実にはありません。交通事故や心臓麻痺、不慮の事故などがプロの仕事です。

私が見ていて、日本の政治家たちは、ノー天気な人たちが多いといつも呆れています。
携帯で政治的な会話をしているからです。電話は全部ダメ。もちろんファックスもメールも駄目です。
盗聴は24時間、全ての人にされているのです。
TPP交渉だって、日本側の作戦も資料も行動も会議も、全部つつぬけです。
特定の言葉や暗号、すべて解読されていて、ほんの一言でもヒットすれば、前後の文脈からたちまち解析されます。

二重底のカバンに米国債を隠し持ったイタリアへの極秘行動などは、アクビをしながら聴いていた事でしょう。


私のアホ話などを盗聴盗視するのは、ハイご苦労さんとしか言いようがありませんが、日本の政治家たちには緊張感を持って仕事をしてほしいと願っています。